太祖実録(太祖1年7月)
太祖1年(1392年)7月17日〜30日
7月17日
❶太祖が寿昌宮で王位に就いた。12日、恭譲王が太祖の私邸に酒の席を設け、同盟を結ぶために儀仗が並んだ。侍中、裵克廉などが王大妃に申し上げた。
「今の王は昏暗して君主の道理をすでに失い、人心もすでに離れてしまった。国と民の主宰者になれないので王を廃することを求めます。」
ついに王大妃の教旨を奉って恭讓王を廃することにした。南誾が門下評理、鄭熙啓とともに北泉洞の時坐宮に到着すると、教旨を読み上げた。恭譲王は伏してこれを聞きながら話した。
「今の王は昏暗して君主の道理をすでに失い、人心もすでに離れてしまった。国と民の主宰者になれないので王を廃することを求めます。」
ついに王大妃の教旨を奉って恭讓王を廃することにした。南誾が門下評理、鄭熙啓とともに北泉洞の時坐宮に到着すると、教旨を読み上げた。恭譲王は伏してこれを聞きながら話した。
「余は本当は王になりたくなどなかったが、重臣たちが強引に余を王位に就かせた。余は不敏な性分で、事も知らないゆえ、決して臣下の情には逆らえない。」
恭譲王は涙を流した。ついに原州で王位を譲った。
百官が国璽を奉じて、さらに命じて、大妃殿で全ての政務を裁決した。13日に大妃が教旨を下して太祖を監録国事にした。16日、裵克廉、趙浚、鄭道伝、金士衡、李済、李和、鄭熙啓、李之蘭、南誾、張思吉、鄭摠、金仁賛、趙仁沃、南在、趙璞、吳蒙乙、鄭擢、尹虎、李敏道、趙狷、朴苞、趙英珪、趙胖、趙温、趙琦、洪吉旼、劉敬、鄭竜寿、張湛、安景恭、金稛、柳爰廷、李稷、李懃、吳思忠、李舒、趙英茂、李伯由、李敷、金輅、孫興宗、沈孝生、高呂、張至和、咸傅霖、韓尙敬、黄居正、任彦忠、張思靖、閔汝翼ら大小功臣や官僚たちが国璽を持って太祖の邸宅を訪れると、多くの人が村の路地に集まっていた。
大司憲、閔開がひとり喜ばない顔をした様子で、言葉も発さないので、南誾が閔開を殺そうとすると、太祖が言った。
「義理があるので殺すことはできない。」
そして南誾を抑制した。
同じ日、親族の夫人たちが太祖と神徳王后を拝謁すると、米に水をかけて食べていたので、夫人たちは驚き恐れ、北門へ散り去っていった。太祖は門を閉じて入れないようにした。その晩、裵克廉らが門を押し開けて内庭に入り、国璽を庁事の上に置いたので、太祖は恐れて挙措を失った。李天祐を捕えて寝門外に出ると、百官が立ち並んで太鼓を叩き、万歳を歌った。太祖は恐れて容認しなかったので、裵克廉らが王位に上がることを勧告した。
「国に君主がいるのは社稷と民を豊かにするためだ。高麗が開国して今で約500年なり、恭愍王まで至ったが、子を残さずこの世を去った。その時、重臣らが権力を使い、我が身を確立しようと、辛旽の子で、偽りの王子である、禑を恭愍王の後継と称して王位を奪った。それから15年経ち王氏の祭祀はすでに終わった。禑が近頃、暴挙を極め、罪のない人を殺め、軍に命じて遼東を攻めさせた。公(李成桂)は大義を重んじ、天子国の明との国境を侵すことはできない。そして回軍すると、禑は己の罪を知り王位を退いた。しかし、李穡、曹敏修などが禑の妻父の李琳に加担してその息子の定昌府院君を王位に就けたので、王氏の後継が二度廃されることとなった。これは天が公(李成桂)を王位を命じた時期であったのに、謙遜されて王位に上がらず、定昌府院君を推戴し、臨時で国事行為の代理とした。社稷を奉じて民の生活を豊かにすることができた。先の禑の悪行は誰もが知るところだが、李穡や禹玄宝などは固執して悟ることができず、禑を王位に就けた。そして禑の罪が明らかになると、罪を逃れるために尹彝や李初らと密かに結託し、明に逃亡して、『高麗が明を裏切った』と妄言を吐き、明の兵を動かした。まさに高麗を除去しようとしたのだ。その策略が果たして行われていたら、社稷は廃墟に上がり、民も滅びていた。これをどうして許すことができようか。諫官と憲司は啓請し、李穡や禹玄宝らの罪を明らかにし、償うべきだと上疏した。しかし、定昌君は親類だという理由で法を曲げて擁護し、言官らを追い出した。そのため、不届きな者が法を恐れず地方に散らばった。金宗衍は、逃避中にもかかわらず結託して乱を図り、金兆府も乱に参加しようと図った。禍乱は日々止まなかったが、定昌君は社稷と民を収める君主の大計を顧みず、恩恵を施して民心を得ようとした。そのため、法を犯した者もすべて許してしまった。書経で言う『天下の逋逃の主と爲りて、淵藪に萃まる』ということだ。これは王を擁立する計略のことを言う。すなわち、功は国家にあり、大義名分を持って回軍したことで、民は恩恵を受けることができたのに、讒訴をすべて聞き入れて死に追いやれば、讒訴した連中の思惑通りになってしまう。忠誠で善良な民は昏迷し、政治や法は乱れ、民は足場を固めることもできない。王が天譴を告げると、星象にもたびたび異変が訪れ、災いの前兆も見えるようになると、定昌君は、己が君主の道理を失い、民心も去り、民の主宰者になれないことを悟り、私邸に戻った。しかし、軍政や国政の事務は極めて煩わしく、極めて重大であるため、王座を一日でも空けておくことはできない。それゆえ、王位に上がり、神と民の期待に応えてください。」
太祖はもとよりこれを断り、話した。
「古来より王になる者には天命が不可欠である。私は徳のない人間なのにどうして王位に就くことができようか。」
そしてついに応じることはなかった。
大小臣僚たちは護衛を擁して退かず、切実に懇願した。そしてついに太祖は止むを得ず寿昌宮に出向き、宮門で百官に迎えられた。太祖は馬から降り、歩いて入殿し、即位した。御座を避けて楹內に立ち、様々な臣下の朝賀を受けた。六曹の判書に命じた。
「余が王になり、職務を果たすことができるかいまだに恐れ多い。今日どうしてこうなると予想できただろうか。余がもし元気なら馬に乗ってこれを避けることもできたが、病で手足の自由もままならない。しかし、こうなったのだから、重臣たちは心と力を合わせて徳の少ない余を補佐してくれ。」
そして中央と地方の大小臣僚たちに今まで通り政務を行うように教じて邸宅に戻った。
❷王が潜邸にいる時、夢で金尺を持った神人が空から降りてきて話した。
「侍中・慶復興は清廉さはあるが既に老いており、都統・崔瑩は実直だが少し頑固だ。この国を正すのは公(太祖)でなければ一体誰がいるだろうか。」
その後、門の外で文を捧げて話す者がいた。
「これを智異山王が潜邸にいる時、夢で金尺を持った神人が空から降りてきて話した。
「侍中・慶復興は清廉さはあるが既に老いており、都統・崔瑩は実直だが少し頑固だ。この国を正すのは公(太祖)でなければ一体誰がいるだろうか。」
その後、扉の外で文を捧げて話す者がいた。
「これを智異山の岩の中で見つけました。」
その文は「木子(李)が再び三韓国を正す。」であり、さらには「非衣(裴)、走肖(趙)、三奠三邑(鄭)」の文字もあった。
太祖は、命じて迎え入れようとしたが、既に人の姿はなく、探しても見つからなかった。
高麗の書雲観にあった秘記には、『建木得子の説』があり、また、『王氏が滅亡し李氏が興る』と書かれていたが、高麗末期に至るまで隠されて発布されなかったので、今の時代になって世に現れるようになった。また、早明(朝の字を崩したもの)という言葉があり、民はその意を悟ることができなかったが、国号を朝鮮に改めると、それが朝鮮を表すものだとすぐに知ることができた。
宜州には大きな木があり、年月が経つうちに枯れてしまっていたが、朝鮮が開国する少し前、再び葉が生い茂り始めた。人々はこれを開国の兆しだと言った。
また、太祖が潜邸にいた頃、太祖がかつての侍中・慶復興の私邸を訪問すると、慶復興は太祖を迎え入れ、妻は太祖に礼を尽くした。そして、子孫をお願いしますと語った。
「私の愚かな子孫も、将来、公(太祖)にお仕えいたしますので、どうか忘れずにいてくだされば幸いです。」こうして太祖を迎えるたびに大いにもてなした。太祖が征伐によって外に出ると慶復興はいつもこう告げた。
「東韓の社稷は将来、掌握するので、戦争を避けることなく、十分に守ってください。」
かつて相命使の恵澄がその親しい人に言ったのは、「私は多くの人の運命を見てきたが、李成桂のような人物はいなかった。」
親しい人が「生まれつきの運命がたとえよくても、官位か家宰に止まるだけだ。」と話すと、恵澄は「家宰というものがあるか。私が観察したのは君長の運命だから、彼が王氏に変わって必ず立ち上がる。」と言った。
また、三軍は新京(漢陽)の土地で狩猟をしたが、殿下(太宗)が邸宅にいる時も行っていた。シカが1匹いたので、殿下(太宗)が駆けつけて射た。王氏が10名ほど集まってこれを見ると、お互いに振り返りながら、「民衆が李氏が興ると言っているが、この人ではないか?」と話した。
また、上王(定宗)が邸宅にいるときに、侍中・李仁任の私邸に行くと、李仁任は「国は将来、必ず李氏になる」と言っていた。
7月18日
❶雨が降った。これまで長い間、日照りが続いていたが、王様が即位すると土砂降りの雨が降り、民衆は大いに喜んだ。
❷都評議使司および大小臣僚と閑良、耆老などが、知密直司事・趙胖に、中国の都へ行き礼部に伝達するよう求めた。
「私たちの国が、恭愍王が後嗣なく死去したため逆臣である辛盹の息子・禑が権臣の李仁任などにより王位に立てられたが、禑はまもなくして昏暴し狂恣して、罪のない人々をたくさん殺め、軍を操って遼東へ向かうという状況になりました。その時、右軍都銃使・李成桂が上国(明)の国境を犯すことはできないとして軍を引き戻すと、禑はこれを助ける人が少ないことに自ら気がつき、恐れて息子の昌に譲位すると、朝廷は恭愍王の妃である安氏の命令を受けて、王氏の宗親である定昌府院君・瑤に臨時で国事署理をさせ4年が経過した。瑤もまた昏迷し、法に外れて誠実な人を配流して親近を要職に就けて秩序を乱し、功臣を陥れて佛神にすがって無闇な土木工事を行って国費を濫用したため、国民は苦痛に耐えられなかった。息子・奭は愚かで無知のため酒に溺れて、臣下をあつめて忠実な臣下を謀害し、鄭夢周らが謀って勳臣の李成桂、趙浚、鄭道伝、南闇らを瑤に讒訴して排除しようとしたが、国民が憤慨して鄭夢周の首を取った。臨時で国事を行う瑤はそれでも行動を改めず、また殺戮を図ったので、臣下は国と国民が挙措を失っては、どうすることもできない。みなの考えでは、このような真似では国民を治め、国を尊重することが難しいため、洪武25年(1392年)7月12日に恭愍王の妃である安氏の命で、瑤を私邸に退かせた。軍政と国政は1日でも統率がなくてはならないものだが、宗親の中にも世間の人望が厚い人がいなかった。ただ、門下侍中・李成桂は国民に恩澤を与えており、その功労は国において朝廷と民心がいずれも集まり、国の大小臣僚と閑良、耆老、軍民がみな王位に推戴することを願って、知密直司事・趙胖が朝廷に向かって奏達して、多くの国民の意見に従って、国民の生活を豊かにしてください、と述べた。」
❸義興親軍衛を設置して都摁中外諸軍事府を廃した。
❹百官に命じて高麗王朝の政令、法制の長所・短所と変遷されてきた来歴の事目を詳細に記録して申し上げるようにした。
❺宗親と大臣に命じて、兵をいくつかある道(区画)に分けた。
7月20日
❶前任の政堂文学である鄭道伝に命じて、都評議使司の機務に参議し、尚瑞司事に参掌させた。
❷司憲府・大司憲の閔開などが高麗王朝の王氏を外へ置くことを求めると、王様が話した。
「順興君・王昇と息子の康は国に功労があり、定陽君・瑀とその息子の珇と琯は今後、高麗王朝の祭祀を奉じるため論じないとして、その他の残りはみな江華島と巨濟島に分けておいてください。」
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