撫安大君/李芳蕃(イ バンボン)
★王族(太祖治世)
撫安大君(ムアン テグン)/李芳蕃
☆概要
太祖の七男
☆生没年
1381年〜1398年
☆親族
【父】
- 太祖/李成桂(イ ソンゲ)
【母】
- 神徳王后康氏(シンドク ワンフ カン氏)
【妻】
- 開城府夫人元配王氏(ケソンブ プイン ウォンビ ワン氏)
【子】
▽養子
- 広平大君(クァンピョン テグン)/李璵(イ ヨ)
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芳蕃は太祖と神徳王后康氏の七男(前妻から数えて)で、高麗最後の王である定陽君、王瑀(ワンウ)の娘と結婚しました。
幼い歳で高麗王朝から孝功佐郎に任命され、朝鮮開国後には撫安君に冊封され、義興親軍衛節制使に任命されました。1393年には12歳で左軍節制使に任命され、一時、太祖と康氏の推薦で世子に目されたこともありましたが、趙浚(チョ ジュン)や鄭道伝(チョン ドジョン)らが「性格が狂暴で軽率だ」と反対し、世子の座には芳碩が就きました。
1398年、芳遠が主導した“第1次王子の乱”で芳碩とともに17歳で殺害されました。
後に世宗の五男、広平大君が芳蕃の後継と定められましたが、広平大君が夭逝したため後継は途絶えてしまいました。
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