Q.徳興大院君が追尊されなかった理由はなんですか?
A.朝鮮13代王・明宗は後継なく逝去したため、次の王を決める必要がありました。そこで推挙されたのが、中宗の九男・徳興大院君の三男である河城君でした。河城君が宣祖として14代王に即位すると、宣祖は父である徳興大院君の追尊に努めました。追尊とは何らかの理由(廃位や夭逝)で順当に王位継承がなされなかった際に、形式上、父親を王であったことにして王の正当性を確立することです。宣祖は父である徳興大院君を追尊しようとしましたが、三司(司憲府、司諌院、弘文館の総称)と呼ばれる行政機関に否決されました。その理由は徳興大院君(徳興君)が庶子であったこと、宣祖の即位が明宗から受け継いだ正当な継承であることなどが挙げられました。
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