Q.チャンヒビンは廃妃ですか?では、なぜ廃禧嬪や廃大嬪と表記されないのですか。
Q.チャンヒビンは廃妃ですか?では、なぜ廃禧嬪や廃大嬪と表記されないのですか。
A.チャンヒビン(禧嬪張氏)はもともと粛宗の後宮として入宮しましたが、南人派の家系だったため、庚申換局で南人派が追放された際に宮廷を追い出されてしまいました。その後、張氏を嫌っていた明聖大妃が死去すると宮廷に復帰し、その美貌で粛宗の寵愛を受けて息子である昀(のちの景宗)をもうけて禧嬪に昇格しました。さらに翌年、昀が世子(正式な王位継承者)に冊封されると、仁顕王后を廃して王妃に就きました。しかし、淑嬪崔氏が寵愛されるようになり、少論派によって仁顕王后が復位されると、再び嬪に降格されました。そして、仁顕王后が死去した際に、呪いをかけていたとして粛宗によって毒薬が下され亡くなりました。
一度は王妃に就き、その後王妃を廃され嬪に降格しました。そのため、“廃妃”であることは間違いありません。しかし、最終的に嬪は廃されていないため、“廃嬪”という表記は適当ではないと感じます。当時、罪を犯した側室は廃庶人といって平民に降格される(廃貴人趙氏や廢淑儀文氏など)のが通常でしたが、禧嬪張氏の息子である昀が世子であったため、今後の王権の衰弱を懸念して庶人に降格させなかったと考えられます。
0コメント