獻懿大院王/興宣大院君/李昰応 헌의대원왕/흥선대원군/이하응

獻懿大院王/興宣大院君/李昰応 
헌의대원왕/흥선대원군/이하응 [全州] 
1821-1898
〈宗室〉
【母】驪興閔氏
【配偶者】驪興順穆大院王妃閔氏〈①興親王/完興君/李載冕 ② 高宗/翼成君/李㷩 ●娘2〉、遂安桂氏〈◯完恩君/李載先 ●娘〉

 英祖の息子である莊祖の庶子・恩信君の養子である南延君の四男。興宣君に封じられた。哲宗が後嗣なく崩御すると、純祖の長男・翼宗の正妃である神貞大王大妃趙氏と親交を深め、次男である李㷩を翼成君に封じ、さらに高宗として即位させた。高宗が即位すると興宣大院君に冊封され、神貞大王大妃趙氏の垂簾聴政を補佐し、安東金氏や老論派を追放して政権を強化した。また、科挙制度を改正し議政府の要職などに庶子を登用したほか、キリスト教カトリック教徒らをを弾圧した。丙寅教獄でフランス人カトリック宣教師らを処刑すると丙寅洋擾でフランス軍の侵攻を受けたが、これを討伐した。同時期には開国を迫ったアメリカ軍を撃退したジェネラル・シャーマン号事件を契機に辛未洋擾が起こり、江華島への攻撃を受けたが、長期戦の末に撤退させた。景福宮の再建などで財政を圧迫させ、両班の不満を買うと、明成皇后閔氏の勢力によって弾劾され失脚した。しかし、次第に明成皇后閔氏の圧政に反感を抱いた儒学者らに支持され、壬午軍亂によって閔氏勢力ら開化派から政権を奪還すると、東学農民戦争を経て摂政に復帰した。長男・完興君の長男である永宣君を王位に就けるため、清と結託して日本軍を追放しようとしたが、日清戦争で日本が勝利すると権力は縮小した。永宣君が配流されると、乙未事変で三浦梧楼らと共謀して明成皇后閔氏の邸宅に侵入し、閔氏を含む3人を斬殺して焼却した。その後、日本軍によって雲峴宮に幽閉され、死去した。死後、純宗が即位すると献懿大院王に追封された。

たいしょーの朝鮮王朝史

朝鮮王朝518年の歴史をここに。

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