端宗
★朝鮮6代王
端宗(タンジョン)/李弘暐(イ ホンウィ)
☆生没年
1441年〜1457年
☆在位期間
1452年〜1455年 ※生前譲位
☆宗室→家系図
【父】
【母】
- 顕徳王后権氏(ヒョンドク ワンフ クォン氏)
【后】
--------------------
★朝鮮王朝史上最年少で即位
第5代王、文宗が即位2年でこの世を去ると、後には幼い弘暐(端宗)が一人残されます。生まれた時、母親は難産から息を引き取り、彼は世宗の側室だった恵嬪楊氏に託されました。7歳の時に世宗によって世孫に封じられましたが、世宗は世子が病弱だったことに不安を抱えました。
さらに、首陽大君(後の世祖)ら王子たちの動向も気になっていました。首陽大君は血気盛んで人物もしっかりしていたため、彼の王位を望む声さえあるほどでした。世宗は悩んだ末、摂政として自身を補佐し続けてきた文宗に後を託します。
世宗の跡を継いで王位に就いた文宗ですが、やはり在位中は自分の死後にまだ幼い弘暐が王宮で生き残れるかどうかが気がかりでなりません。ですがすでに病の床に就いていた文宗にできることは限られていました。彼は重臣の皇甫仁(ファン ボイン)と金宗瑞(キム ジョンソ)に幼い息子の将来を託して38年の短い生涯を閉じます。
端宗は1452年に11歳で即位しました。祖父、世宗が称賛するほど利発な子どもでしたが、王政執行にはやはり無理がありました。そこで文宗から端宗を託された皇甫仁と金宗瑞が中心となり、議政府と六曹が政務を処理し、王は決裁だけを担うという形式的な体制がつくられました。
朝鮮王朝の建国以来、王宮では誰が政治の実権を握るかでたびたび争いが起きました。太祖の側近、鄭道伝(チョン ドジョン)は宰相主義を唱えましたが、これに不満を持った太宗は六曹直啓制を敷いて強い王権を示しました。世宗は父にならって六曹直啓制を継承しましたが、病と多忙により、議政府署事制へと移行しました。世宗の死後はさらに病弱な文宗、そして幼い端宗へと王位が移るにつれ、王権は弱体化していきました。
王権が形だけのものになってしまうと、これに最も強い危機感を抱いたのは端宗の叔父である首陽大君でした。人望もあった首陽大君は王権を脅かす宰相への不満と王位への野心から、ついに決起したのです。
★首陽大君によるクーデターが勃発
首陽大君が決起の機会を狙っていた時、彼のすぐ下の弟、安平大君の周囲には皇甫仁や金宗瑞ら議政府の大臣たちが集まっていました。また、安平大君は文を好み風流を愛でたことから官僚や文人たちも多く集まり、頭脳グループを形成していました。彼らは世論を味方につけ、一大勢力として首陽大君を脅かす存在に成長します。
これに対して、首陽大君の支持者らは武人が中心でした。彼の側近、韓明澮(ハン ミョンフェ)は腕に覚えのある若者を集めて訓練し、配下に取り込んでいきました。それだけではありません。議政府に反発を抱く集賢殿の学者らを参謀メンバーとして仲間に引き入れていました。
こうして1453年、癸酉靖難(ケユジョンナン)が勃発します。首陽大君は安平大君と大臣らの謀反を鎮圧するという名目で、反対派の皇甫仁や金宗瑞らをことごとく血祭りにあげ、一気に権力を掌握しました。
クーデターの成功で中央を掌握した首陽大君は彼らを支持しなかった者の排除に着手します。その中で金宗瑞の側近として彼の強い信頼を得ていた李澄玉(イ ジンオク)は、知らせを聞いて首陽大君に反旗を翻します。金宗瑞が自分の後任として推薦したほど優秀な人物でした。
彼の存在が目障りだった首陽大君は咸鏡道節制使(ハムギョンド トチョルヘサ)の職を解いて都に上るよう命じましたが、李澄玉は首陽大君の企みを知って、逆に彼を討ち取りに向かいます。しかし、運命は彼に味方しませんでした。援軍を頼みに向かった先で襲撃された李澄玉はそこで命つき、彼の反乱軍も散り散りになってしまいました。
★端宗の不遇人生
即位の翌年に首陽大君のクーデターによって実権を奪われた端宗は王宮で守ってくれる者もおらず、叔父の言うなりに定順王后宋氏と結婚します。
そして1455年、首陽大君の側近らによる譲位運動に抗しきれず、王位を譲りました。世宗代に訓民正音(フンミンジョンウム)制定にも尽力した集賢殿の学者、成三問(ソン サンムン)らは端宗を復位させるため、水面下で動いていました。
ところが、秘密裏に進めていたこの計画が露見してしまいます。後に「死六臣(サユクシン)」と呼ばれたこのメンバーは計画が発覚して拷問の末に処刑、議政府は事件の元凶は端宗にあるとして、彼を上王から魯山君に降格させたうえ、江原道寧越(カンウォンド ヨンウォル)に流してしまいました。その後、今度は世祖の実弟、錦城大君による端宗復位計画が進められました。端宗が配流地の寧越に到着する前に明るみとなったこの事件で、端宗は平民に降格させられました。さらに、そのひと月後には、賜薬によってわずか16年の生涯を終えたのです。
0コメント