世祖
★朝鮮7代王
世祖(セジョ)/李瑈(イ ユ)
↑
首陽大君(スヤン テグン)
☆生没年
1417年〜1468年
☆在位期間
1455年〜1468年
☆宗室→家系図
【父】
- 世宗/忠寧大君(チュンニョン テグン)
【母】
- 昭憲王后沈氏(ソホン ワンフ シム氏)
【后】
【子】
▽貞熹王后尹氏(2男1女)
▽𧫴嬪朴氏(2男)
▽廃昭容朴氏
- 王子
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★王位奪取のシナリオ
幼い甥から王位を奪うようにして玉座に就いた世祖は、しばしば太宗と比較されます。太宗は幼い弟を殺して彼が就くはずだった王位を奪いました。ともに中央集権体制を推し進め、反対派を力で潰していきました。徹底した外戚排除を行った太宗に比べ、世祖は側近らの力を利用する政策を取ります。
世祖即位に大きく貢献したのは彼の参謀として癸酉靖難のシナリオを作成した韓明澮(ハン ミョンフェ)です。「靖難」とは国難を救って国を平和にすることで、次の為政者となる世祖の側からみた言葉です。
首陽大君が王位に野心を抱いていると知った韓明澮は、文人を集めた安平大君に対し、武人を集めろと首陽大君に進言しました。韓明澮は命懸けの賭けに出られるだけの勇猛な部隊を形成するように首陽大君を導いたのです。韓明澮に絶大な信頼を寄せていた首陽大君は、彼の言葉どおり多くの武人を集めて万全の準備をしたうえで事に及び、計画どおりに王位奪取を成功させました。
★王権強化を目指した様々な改革
世祖は1455年に王位に就きました。この時すでに38歳でした。1453年の癸酉靖難で実権を握っていた彼は、王位に就くまでの間に反対派をことごとく粛清していたため、端宗の譲位による世祖の即位に口を挟む者はいませんでした。病弱だった文宗に次いで幼い端宗という短命の王が続いたため、王権は縮小されていましたが、世祖の即位によって、王権の強化が急ピッチで進められました。
議政府署事制を廃止し太宗が始めた六曹直啓制に戻すと、これも太宗時代に実施していた戸籍制度である号牌法(ホペ ポブ)を復活させました。こうして王権強化に努めた世祖は王朝の法典として『経国大典(キョングクテジョン)』の編纂にも力を入れました。王道政治の基盤となる法制度を整備することで、国家の安定を図ったのです。法典は世祖代に編纂が始まり、後に第8代王、睿宗代に六典(戸典、刑典、吏典、礼典、兵典、工典)すべてが完成し、第9代王、成宗代に二度修正されています。
1466年にはそれまでの科田法から職田法へと移行し、退職後も官僚に支給されていた土地を現職者だけに支給する制度へと変えました。これにより国費を抑え、官僚の経済力を弱めて謀反を防止しようとしたのです。
即位直後から精力的に推し進められたこれらの政策によって、国家は安定したかにみえましたが、強引な中央集権政策に不満を漏らす者が現れます。その不満が形となって噴出したのが李施愛(イ シエ)の乱です。この反乱は1467年に太祖の故郷である咸鏡道で起きました。
防衛のために強制移住させられる徒民政策によってこの地に住まわされた住民の不満や、自由に他地域に移住できない号牌法、さらには職田法により既得権を奪われた人々の不満が爆発しました。
この反乱では世祖の側近、韓明澮や申叔舟(シン スクチュ)まで一時拘束されるという事態を引き起こし、多くの人々に支持された李施愛は3カ月近くにわたって世祖を悩ませ続けました。世祖はこの反乱の鎮圧に全国から3万近くにも及ぶ兵を動員しています。
★仏教保護、文化発展に尽力
李施愛の乱を鎮圧した後、世祖は民衆の生活を安定させ、文化的な暮らしをつくるためにハングルによる書物の編纂にも尽力しました。また、朝鮮王朝はこれまで崇儒抑仏政策を取ってきましたが、これはあくまで表向きで、実際には太祖をはじめ世宗も晩年には仏教に帰依していました。
世祖はというと、幼い甥を死に追いやり、多くの血を流してきたことへの後ろめたさからか、晩年には自分が殺した人たちの亡霊に悩まされ、ひどい皮膚病にも苦しめられました。そのために救いを求めて積極的に寺を保護し参拝したといわれています。僧侶ともよく語り、『法華経』 などの仏典のハングル訳も数多く手掛けています。
世祖が仏教を保護したのは、即位に際して儒学者らに受け入れてもらえなかったという側面もありました。儒学の立場では、彼は血なまぐさい反逆者だったからです。世祖は王としての正当性を見せつけるため、仏教を積極的に支持したということになります。
一方で世祖は、世宗の代にハングルを創製するなど優秀な儒学者たちが集まっていた集賢殿(チッピョンジョン)を廃止します。世祖の死後も貞熹王后によって仏教は守られましたが9代王成宗が王政に着手するようになると、儒教は再び息を吹き返します。
波欄万丈の人生を送った世祖は1468年に王位を譲り、51歳で死去しました。朝鮮王朝史上、最も強い王権を持った世祖ですが、子孫に恵まれたとは言い難かったのです。子どもたちはみな体が弱く、懿敬世子が早世した後、世祖を継いで王位に就いた次男の睿宗もー年余りでこの世を去ってしまいます。人々はこれも世祖があまりにも多くの血を流したからだと噂しました。睿宗の死後は彼の二人息子のうち次男の乽山君が13歳で王位に就き、まだ若かった王に代わり世祖の夫人である貞熹王后が朝鮮王朝初の垂簾聴政を行いました。
★端宗復位計画
首陽大君は1453年、王位を簒奪するために癸酉靖難を起こし、文宗から端宗を託された金宗瑞(キム ジョンソ)、皇甫仁(ファン ボイン)らを殺害します。王室の実権を握った首陽大君の腹心たちは孤立無援となった端宗に譲位を強要し、1455年、世祖が第7代王として即位することになります。
幼い王を犠牲にしたこの強引な王位纂奪劇は金宗瑞らとともに端宗の行く末を託された集賢殿の学者たちの強い反発を呼びます。義や礼を重んじる儒学者の彼らにとって、世祖の行為は反逆以外の何ものでもありませんでした。
1456年、譲位後上王となっていた端宗の復位を求める運動が進められていることが発覚します。首謀者は、世宗から信任を得てハングル創製にも尽力 した成三問(ソン サンムン)のほか、朴彭年(パク ペンニョン)、河緯地(ハ ウィジ)、李塏(イ ゲ)、兪応孚(ユ ウンブ)、柳誠源(ユ ソンウォン)の6人です。
この年、明からの使臣をもてなすための宴が昌徳宮で開かれることになり、王の護衛として兪応孚が任命されました。先の首謀者らはこの機会を狙って、世祖殺害の計画を立てたのです。
ところが当日になって、世祖の側近、韓明漕が突然この護衛の同席に異議を唱えました。果たして虫が知らせたのか、今となっては知る由もありませんが、こうして計画は実行されずに終わりました。動揺したメンバーの間では、そのまま攻めるか、あるいは次の 好機を待つかで意見が割れてしまいました。
成三間は学者らしくこの場は収束させようとしましたが、武官の兪応孚は決行を主張します。これがメンバーの疑心を呼び、この計画に賛同していた金礩(キム ジル)は鄭昌孫(チョン チャンソン)にこれを洗いざらいしゃべってしまいました。こうして鄭昌孫の口から計画を知った世祖は、彼らを逮捕しました。
事件の首謀者6人をはじめ、関係者17人への取り調べは過酷を極めましたが、彼らは誰一人として屈服することなく、そのまま刑場の露と消えたのです。
世祖の即位後、政治に失望して隠遁生活に入った文人らがいました。彼らは端宗復位運動を計画して死んだ「死六臣(サユクシン)」に対して「生六臣(センユクシン)」と呼ばれました。その6人が金時習(キム シスプ)、元昊(ウォン ホ)、李孟専(イ メンジョン)、趙旅(チョ リョ)、成聃寿(ソン ダムス)、南孝温(ナム ヒョオン)です。彼らは生涯官職に就かず、端宗への忠義を守りました。後の中宗反正で生六臣、死六臣は功臣として評価されるようになりました。
八景詩
死六臣墓
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