燕山君
★朝鮮10代王
燕山君(ヨンサングン)/李㦕(イ ユン)
☆生没年
1476年〜1506年
☆在位期間
1494年〜1506年 ※廃位
☆宗室→家系図
【父】
- 成宗/乽山君(チャルサン グン)
【母】
- 廃妃尹氏(ペビ ユン氏)/斉献王后(チェホン ワンフ)
【后】
- 廃妃慎氏(ペビ シン氏)
- 淑儀李氏(スギ イ氏)
- 淑儀尹氏(スギ ユン氏)
- 淑儀郭氏(スギ クァク氏)
- 淑儀権氏(スギ クォン氏)
- 淑儀閔氏(スギ ミン氏)
- 淑容張氏(スギョン チャン氏)/張緑水(チャン ノクス)
- 淑容田氏(スギョン チョン氏)
- 淑容趙氏(スギョン チェ氏)
- 淑媛崔氏(スグォン チェ氏)
- 淑媛張氏(スグォン チャン氏)
- 淑媛李氏(スグォン イ氏)
- 淑媛金氏(スグォン キム氏)
- 承恩尚宮
【子】
▽廃妃慎氏
▽淑儀李氏
- 陽平君(ヤンピョングン)
▽淑容張氏/張緑水
- 翁主
▽後宮
- 李敦壽(イ トンス)
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★不正腐敗を一掃した初期の燕山君
朝鮮王朝27人の王のうち「祖」や「宗」の諡号が与えられていない、「君」がついている王が2人いました。その一人が燕山君です。諡号を持たないのは、燕山君がクーデターで王位を剥奪されたためです。
燕山君は成宗の長男として誕生しました。母親は斉献王后尹氏。名は㦕。稀代の暴君として記録が残る燕山君ですが、その背景には、不遇な母、尹氏の過去が影響しているといわれています。
斉献王后は、12人の夫人をめとり28人の子どもを持った成宗に対し、激しい嫉妬を燃やしていました。1477年には王の後宮たちを毒殺するためヒ素を隠し持っていると疑われます。さらには、成宗の顔を引っかいて傷をつけるという事件を起こし、王と母后の仁粋大妃が激怒。王妃の座を追われ、後に毒薬を飲まされて命を失いました。この事実は成宗の厳命により、一切口外されることはありませんでした。
当時3歳だった王子、㦕は、自分の本当の母親が誰なのか知らずに、母が追い出された後に王妃となった貞顕王后尹氏を母と信じたまま、周囲から真の愛情を受けることなく成長していきました。そのためか、幼い頃から自分の気持ちを表さず、頑固で独断的な傾向がありました。また、学問を嫌い、学者を快く思っていませんでした。
そんな㦕の乱暴な気質を伝えるものに、鹿にまつわる逸話があります。世子となった㦕に、成宗が王としての道理を教えていた時のこと。いきなり鹿が飛び込んできて、㦕の着物や手の甲をなめ回しました。激怒して鹿を足蹴にした㦕を、鹿を可愛がっていた成宗は叱りつけました。それを㦕は恨みつづけ、1494年に成宗が死去し、自分が王位に就くと、真っ先にその鹿を矢で撃ち殺しました。また、世子時代に自分に厳しく接していた師匠を厭い、王位に就くやいなや彼のことを殺してしまいました。
とはいえ、燕山君は初めから圧政をふるっていたわけではありません。即位当初は、むしろ成宗末期の不正腐敗を一掃するべく、策を講じました。全国に暗行御使(アメンオサ)と呼ばれる密使を派遣し、官僚の監視や庶民の事情の調査などを行ったほか、別試文科という試験制度を導入して有能な人材の登用に務めました。また、女真族の侵入が続いていた北方の安定化に力を注いだり、歴代王の実績を記した『国朝宝鑑(ククチョポガム)』を編纂するなど、文化政策も怠りませんでした。
燕山君墓
★独裁的な圧政で官僚と対立
ところが、4年ほど続いた穏やかな治世は、士林派との不協和音を機に、暴政へと転じていきます。そもそも学間嫌いで、名分と道義を重んじ学間を勧める士林派をかねてから疎んじていた燕山君は、1498年、勲旧(フング)勢力と結びつき、士林派の官僚を弾圧する「戊午士禍(ムオ サファ)」を起こします。
『成宗実録』を編纂していた過程で、勲旧派から〝士林派の書いた文章の中に世祖を批 判するものがある〟という報告を受けた燕山君は、士林派を大量に粛清しました。
戊午士禍で士林派ばかりか一部の勲旧派まで追放したことで、燕山君は急速に独裁者と化していきます。また、美女を宮殿に招き宴会を開くなど、奢侈を続けて国家財政を混乱させました。さらに破綻した国家財政を埋めるため、臣下に支給していた土地を没収しようとし、官僚たちとの対立を深めました。
そして1504年、「甲子士禍(カプチャ サファ)」を引き起こします。生みの母親が王妃の地位を廃され処刑されたという密告を受けると、その事件に関係した人物をすべて粛清。勲旧派の臣下と、戊午士禍で難を逃れた士林派の臣下、数十人を手当たり次第死刑に処しました。
【〝戊午士禍〟と〝甲子士禍〟 】
士禍(サファ)というのは、「士林が被った禍」という意味。つまり、士林派に対して行われた粛清のことです。朝鮮王朝時代には士禍が4回起きていますが、そのうち2回が燕山君の時代の出来事です。この時期には、世祖のクーデターに加担して政権を担当してきた勲旧派と、成宗の時代に台頭してきた士林派との間の政治的思想な対立が深まっていきます。同時に、燕山君の異常な性格や政治の混乱が2つの派の対立を深化させ、士禍の引き金となりました。
〝戊午士禍(ムオ サファ)〟は1498年、燕山君の即位後に先代の王の歴史をまとめた『成宗実録』を編纂する過程で起きました。勲旧派の李克墩(イ グクトン)が、史草の中に成宗に登用された士林派巨星、金宗直(キム ジョンジク)が生前に書いた〝弔義帝文(チョウィジェムン)〟を発見します。それは、秦を滅ぼした項羽が楚の義帝を廃した中国の故事になぞらえて、世祖の王位簒奪を非難したものでした。勲旧派は、士林派がこの世祖に対する批判文を『成宗実録』に盛り込もうとしているとして、燕山君に訴えました。報告を受け、もともと士林派を嫌っていた燕山君は、士林派の粛清を断行します。それは、すでに故人となっている金宗直の死体を墓から掘り起こ して首を切り落とすなど、残虐なものでした。
2度目の士禍〝甲子士禍(カプチャ サファ)〟が起きたのは1504年。きっかけをつくったのは、任士洪(イム サホン)という人物でした。自分の息子を王の娘婿にするなど、王と縁戚関係をつくることで勢力を伸ばしながらも、士林派に弾劾を受けて配流されたこともあった任士洪は、燕山君を利用して士林派を一掃すべく陰謀を企てます。成宗の遺言により伏せられていた斉献王后尹氏が王妃の位を廃された事件の詳細を燕山君に告げたのです。怒り狂った燕山君は、事件の関係者を洗い出し、7カ月にわたって数十人を残酷な刑に処しました。
以後、燕山君の暴君ぶりに拍車がかかります。全国の美女を集めて妓生を養成。最高学府であった成均館を妓生との酒色の場にしたり、朝鮮仏教の拠点でもあった円覚寺(ウォンガクサ)を王の享楽の場に変えたり、自分を非難する投書を防止する目的でハングルの投書を禁止するなど、常軌を大きく逸していきました。
【 妓生から後宮へ 張緑水の栄華盛衰 】
張禧嬪(チャン ヒビン)、鄭蘭貞(チョン ナンジョン)と並び、後の世に〝朝鮮王朝三大悪女〟と伝えられる張緑水(チャン ノクス)。妓生から王の側室に上りつめた彼女には様々な逸話が残されています。
張緑水は、忠清道文義県令を務めた張漢弼(チャン ハンピル)と妾の女性の間に生まれました。生年は不明です。母親の身分を受け継ぎ奴婢として育ちましたが、張緑水は妾の子、そして奴婢として蔑まされながら生きるのに耐えられず、家を出て妓生になることを選びます。そして、成宗の従弟、斉安大君(チェアン テグン)の妓生となり、斉安大君の家僕との間に息子を生みました。
飛びぬけて美人ではなかったものの、男好きする顔立ちだったという張緑水は、歌舞や芸術分野に天才的な才能を持っており、ほどなく都にその名をとどろかせます。その噂は宮中まで伝わり、張緑水をひと目で気に入った燕山君が、彼女を入宮させました。
記録には〝王を子どものように扱い、王はどんなに機嫌が悪くても、彼女さえいれば笑顔になった〟とあります。すでに子持ちで、燕山君よりも年上だったという張緑水ですが、入宮後すぐに王の側室としての位である従四品淑媛を与えられました。1503年にはさらに上位の従三品淑容に格上げされたことからもわかるように、燕山君から格別の寵愛を受け、異例の出世を遂げました。妓生出身の女性が王の側室に上がるのは稀なことでした。
燕山君との間に息子は恵まれなかったものの、娘を一人出産。王の寵愛を手玉に取った張緑水は、実の兄とその息子の身分を賎民から引き上げるなど、権力を乱用。暮らしぶりも賛沢を極め、享楽的な燕山君をさらに退廃させて、国庫を傾かせる一因を導いたともいわれています。
しかし、彼女の栄華はわずか数年しか続きませんでした。1506年、クーデターにより燕山君が王位を追われると、張緑水も捕らえられ、軍器寺の前で斬首刑となりました。民衆からも恨まれていた張緑水の死骸に、人々は罵声を浴びせ、石を投げつけたといいます。
稀代の暴君、燕山君に色香で取り入り権力を動かし、最後には死を受け入れることになった張緑水。彼女はまた、女性がただ家を守ることを強いられていた朝鮮王朝時代において、運命を自らの意志で切り開いた数少ない人物でもありました。
民衆からも恨みを買った燕山君に対し、ついに臣下たちが反発。1506年に、朴元宗(パク ウォンジョン)、成希顔(ソン ヒアン)らが中心となってクーデターを起こし、反乱軍が王宮に突入。燕山君は捕らえられて王位を廃され、成宗の次男、晋城大君(中宗)が即位しました。燕山君は江華島へ流され、それからわずか2カ月後の1506年11月、この世を去りました。史書に残る燕山君は、悪行についての部分が多いですが、「苦悩を抱えた悲劇の王」とする見方も存在しています。
★立ち上がった反乱軍
〝甲子士禍〟以後ますます乱暴さを増していった燕山君の圧政に対し、全国各地で彼を追放しようという動きが出てきます。そして1506年、ついに臣下たちによってクーデターが起きました。
中心となった人物は、成希顔(ソン ヒアン)と朴元宗(パク ウォンジョン)。成希顔は優れた文官でしたが、燕山君の国政を批判する詩を献じたことで、閑職に左遷されていました。朴元宗もまた、燕山君によって左遷と復職を繰り返していました。そのうえ「朴元宗 の姉に下心を抱いた燕山君が、彼女を宮中に呼び入れ、暴行を働いた」という噂が広まり、姉が自殺したことに深い恨みを持っていました。
2人は、燕山君が京畿道長湍の石壁に遊覧に出かける日を計画実行の時に定めます。一時は突然の遊覧中止の知らせに計画を保留しましたが、よそでも反乱軍が立ち上がりつつあるという報を受けて急遽兵を集め、景福宮突入を決行。事前に根回ししていた臣下たちの助けを得て、簡単に王宮掌握に成功しました。燕山君はその日のうちに王位を廃され、江華島に送られました。そして翌日、燕山君の異母弟で、成宗の次男である晋城大君が即位しました。同時に、燕山君の臣下である任士洪や側室の張緑水も処刑されました。
朝鮮王朝建国以来、初めて臣下が王に反旗を翻し政権を換えたこのクーデターを〝中宗反正(チュンジョン パンチョン)〟といいます。
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