光海君

★朝鮮15代王

    光海君(クァンへ グン)/李琿(イ ホン)
【←宣祖/仁祖→】
☆生没年
    1575年〜1641年
☆在位期間
    1608年〜1623年 ※廃位
☆宗室→家系図
【父】
  • 宣祖/河城君(ハソン グン)
【母】
  • 恭嬪金氏(コンビン キム氏)/恭聖王后(コンソン ワンフ)
【后】
【子】
▽廃妃柳氏
▽昭儀尹氏
  • 翁主
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★明に正式に認められなかった世子

    1575年に第14代王、宣祖の次男として生まれた光海君は、3歳の時に母と死別。同腹兄には臨海君(イメグン)がいます。名前は琿(ホン)。1592年に壬辰倭乱が起き、世子に冊封されました。
    もともと、宣祖には14人の息子がいましたが、懿仁王后(ウィイン ワンフ)との間に子どもが生まれませんでした。そのため、庶子の中から世子を選ばざるを得ず、当時、宣祖が寵愛していた信城君(シンソングン)は病死し、長男の臨海君は気性が激しく、王の資質がないとされました。そこに壬辰倭乱が起こり、非常事態で分朝体制になります。宣祖が避難していた北道の義州行在所を本朝とし、咸鏡道に避難していた光海君の所を臨時分朝としました。こうして光海君は、分朝体制のもとで朝廷の一部を率いて責務を果たすこととなり、長らく決まらなかった世子に冊封されることが決まりました。
    しかし、ここで問題が起こります。世子に冊封されるには、明に報告し、朝廷からの誥命を受けなければなりませんでした。ところが、光海君は長男の臨海君がいることで明の朝廷から了承が得られなかったのです。光海君は父、宣祖から世子として選ばれたものの、非常に不安定な立場でした。
光海君墓

【二重外交と富国強兵】
    光海君は、王位に就くと国内の民生安定策を強力に推進していきました。その一方で急変する東北アジアの国際情勢に対応しようとします。満州では女真族の力が強くなり、後金が建国されると、朝鮮王朝では大砲を建造し、平安監司に朴燁(パク ヨプ)を、満浦愈使に鄭忠信(チョン チュンシン)を任命して国防を強化しました。また、明の援軍要請で、姜弘立(カン ホンニプ)に一万の兵を与え支援させました。しかし、サルフの戦いで明が後金に敗北すると、現在の中国遼寧省桓仁のフチャの戦いで姜弘立は、後金に投降。ヌルハチと和議を結んでしまいました。1619年、姜弘立が後金に投降したという知らせが朝廷に届くと、大臣たちは明を裏切って投降した姜弘立を逆賊として罰し、彼の家族を殺すべきだ と主張しました。ところが、光海君は大臣たちの主張とは裏腹に、彼の家族たちを上京させて保護しました。
    つまり、菱弘立の投降は光海君の策略だったのです。表面上は明に対して従い、一方で後金の捕虜となった姜弘立と密書を交わし、後金の動向を逐一探っていました。明と後金との二重外交政策により戦争を回避しつつ、このような北方の治安の乱れを念頭に置いた光海君は、南方の倭国に対しても、父、宣祖の遺志を受け継いで通信使を送って国交を回復させ、平和維持に努めました。
    さらに、国内では漢城が戦乱で消失したため、新たに都を京畿道坡州交河に移すことを決めました。他の懸案事項により遷都には至りませんでしたが、光海君は巧みな外交路線を歩み、国内では強力な王権体制を敷き、富国強兵の道を模索していました。
朝鮮国信使絵巻

    さらに、戦乱が終わり1602年に仁穆王后が宣祖の継妃となり、永昌大君が生まれると、状況が悪化します。宣祖が光海君を廃位して、永昌大君を世子にしようとしました。朝廷は光海君を支持する大北(テブク)派と永昌大君を支持する小北(ソブク)派に分かれて対立しました。
    宣祖は、持病が悪化した時、現実的な判断によって光海君への禅位教書を下しました。しかし、小北派で領議政の柳永慶(ユ ヨンギョン)は、光海君が庶子であるうえに、次男であり、また明からの承認も受けていないことを理由にこれを交付せずに自宅に隠してしまいました。その後、宣祖が最期に「永昌大君を頼む」と言い残して死に、王位継承の決定権は仁穆王后に渡されることになります。しかし、永昌大君が幼かったため、世子に冊封さ れていた光海君が即位。これにより朝廷では光海を支持する大北派と、反対派の西人派の党争が起きます。結局、大北派により臨海君や永昌大君は除去され、仁穆王后も幽閉となりました。
仁穆王后御筆

★混乱した国内を立て直し、政敵を粛清

    光海君は即位後、壬辰・丁酉倭乱で破綻した国内の財政を回復することに全力を注ぎます。超党派的立場であった南人派の李元翼(イ ウォニク)を領議政に登用。戦乱で消失した宮殿を再建して、王室の威信回復に努めました。また、民の暮らしを救済するために納税制度〝大同(テドン)法〟を改めました。
大同法施行記念碑

    一方で、光海君は王権を安定させるために、政敵を粛清していきます。最初に王位継承の時に策略を巡らした柳永慶を配流し、自決させました。
    朝廷では、世子冊封の際に問題になった兄の臨海君も流罪にすべきだという意見が出て、配流となります。さらに、明から世子冊封に関して真相調査団が派遣され、光海君が次男で王位を継いだことが問題になったので、長男の臨海君を殺害しました。さらに、光海君と組んで執権をとっていた李爾瞻(イ イチョム)ら大北派は、権力を独占するため光海 君に政敵を除去するように勧めます。1612年には〝金直哉の獄事〟が起こり、成均館の儒生たちを追放し、多くの小北派が粛清されました。さらに1613年に、朴応犀(パク ウンソ)などの7人の庶子たちが謀反を企て、宣祖の嫡子である永昌大君を擁立しようとしている 
と謙疑をかけた、いわゆる〝七庶の獄〟と呼ばれる事件です。これにより、永昌大君は江華島に配流され、1614年にわずか9歳で殺害されてしまいました。そして1615年には光海君の異母弟、定遠君の三男である綾昌君(ヌンチャングン)を推戴しようとする事件が起き、これに関与した人物は排除されました。
【大北派の政敵除去と現実政治】
    光海君を支持したのは大北派でした。彼らは光海君の政敵除去のため具体的に支援し、実行していきます。最初は光海君の実兄である臨海君の排除でした。次に大北派は永昌大君の支持派閥である小北派を追い出すように策略します。さらに、永昌大君を配流のうえ殺害し、仁穆大妃を幽閉。そして宣祖の5番目の庶子、定遠君(チョンウォングン)の息子である、綾昌君を排除しました。こうして光海君は王権を脅かしていた勢力をすべて排除し、大北派が政治の中枢を握るようになります。しかし、こうした粛清の過程で多数の敵を生んでしまったために、反大北勢力がのちに綾昌君の実兄である綾陽君を担ぎ出し、仁祖反正を起こすことになりました。
    王権の反対勢力をほぼ除去したにも関わらず、政治的理念を異にする勢力から仁祖反正で廃位された光海君。仁祖反正を〝中宗反正〟と対等に定義する向きもありますが、徹底した暴君であった燕山君に比べると、光海君は内外にわたり現実的な政治を行った王だといえます。

★〝仁祖反正〟クーデターで廃位

    こうして光海君は王権安定の過程で多くの人々を犠牲にし、反乱の名目を与えてしまいました。
    1623年、親明派の西人と綾昌君の兄、綾陽君(ヌンヤングン)が兵を率いて昌徳宮へ進軍し、クーデターを起こしました。クーデターに成功した彼らは大北派を排除し、光海君を廃位させました。これが〝仁祖反正(インジョ パンチョン)〟です。彼らの名目は「光海君が大明事大主義を拒否し、先王の王妃、仁穆大后を幽閉した」というものでした。
    廃位後、光海君は江華島へ流罪となり、のちに済州島に移されて、18年間生き続け、67歳で亡くなりました。光海君は兄の臨海君、甥の永昌大君と綾昌君を除去したことで暴君といわれている一方で、民生安定策を推進したり、実利的な外交を行った点で評価が分かれています。

【〝洪吉童伝〟と〝東医宝鑑〟】
    〝洪吉童伝(ホンギルトン ジョン)〟は許筠(ホ ギュン)が書いた最初のハングル小説です。内容は盗賊を主人公とした英雄小説で、 両班の庶子差別の不条理を批判した社会派の内容でした。許筠は小説の中に、理想的な社会を描こうとしました。さらに現実でもこれを実践しようとします。学識のある許筠は光海君の信任を得たものの、庶子差別をなくすためのクーデターを起こして失敗しています。彼の持つ変革思想はのちの社会に大きな影響を与えることになりました。
    一方、東洋医学史に業績を残した許浚(ホ ジュン)。内医院で王の健康を守りながら、宣祖の命を受けて〝東医宝鑑(トンイポガム)〟を 編纂した人物です。これは当時の医学知識を集めた百科全書で、内科、外科、雑科、湯液、鍼灸の5編で構成されます。膨大な資料をもとに編纂された貴重な漢方臨床医学書とされています。
〝洪吉童伝〟
〝東医宝鑑〟

たいしょーの朝鮮王朝史

朝鮮王朝518年の歴史をここに。

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