仁祖

★朝鮮16代王

    仁祖(インジョ)/李倧(イ ジョン)
      ↑
    綾陽君(ヌンヤン グン)
【←光海君/孝宗→】
☆生没年
    1595年〜1649年
☆在位期間
    1623年〜1649年
☆宗室→家系図
【父】
【母】
【后】
【子】
▽仁烈王后韓氏
▽廃貴人趙氏
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★仁祖反正を決心

    1623年、仁祖は光海君の跡を継いで16代王となります。しかし、仁祖は正式な王位継承者ではありませんでした。クーデターで王位を奪ったのです。仁祖の父は第14代王、宣祖の五男、定遠君で、第15代王、光海君とは異腹の兄弟でしたが、この時はすでに病死していました。
    光海君は宣祖の次男でしたが、世子に冊封された時から常に自分の立場の正統性に悩まされていました。後宮の子、つまり庶子だったからです。宣祖は懿仁王后との間に王子がいなかったためか、最初は寵愛していた四男の信城君(シンソングン)を世子にしようとしていました。しかし、周囲に反対され光海君を世子にしました。ですが、光海君が世子になってから、宣祖と継妃の仁穆王后との間に王子が誕生します。継妃から王子が生まれれば、そちらを世子とすることが原則でした。そのため、永昌大君を支持する小北派と、光海君を支持する大北派の間で、王位継承権をめぐる争いが繰り広げられました。光海君が王位に就いてからも、王権を脅かす人物と彼らを支えた小北派と西人派らは次々に粛清されました。
    まず、小北派が排除、続いて永昌大君が殺害され、宣祖から仁穆王后と永昌大君を支持するように遺命されていた西人派の多くが政界から追放されました。さらに綾昌君(ヌンチャングン)も殺害されました。綾昌君は定遠君の三男で、綾陽君の弟ですが、信城君の養子に入っていました。王になる資質があると言われてていましたが、彼も光海君によって排除されました。また、永昌大君の母である仁穆王后も光海君の手によって1618年に幽閉されてしまい、西人派の勢力はほぼ完全に排除されてしまいました。
    ここに小北派と西人派と綾陽君の怨みが重なって、一挙にクーデターへと進んだのでいきました。これが〝仁祖反正(インジョ パンチョン)〟です。クーデター成功の報を綾陽君から聞いた仁穆大妃は、喜んで綾陽君を王に封じました。仁祖は光海君に巻き返される前に大急ぎで即位式を行いました。服装こそ正式な九章福だったものの、冠は普段の政務時に着ける翼善冠だったとされています。

★〝親明反金〟政策で恥辱を受けることに

    しかし、政権を奪い取って王になってからも、仁祖にとっては逆境の連続でした。まず、1624年、クーデターの論功行賞をきっかけに李适(イ グァル)が反乱を起こします。李适が漢城を占領したため仁祖は公州まで避難しました。朝鮮の歴史上、王が内乱で漢城を 逃げ出したのは初めてのことで、民衆の気持ちに不安が生じました。
【〝仁祖反正〟と李适の乱 】
    李适(イ グァル)は仁祖反正の時の中心人物の一人でした。その李适が反正後ー年もしないうちに仁祖に背き乱を起こしました。それは、西人派の陰謀にはめられたからでした。そして、この乱が次の乱のきっかけを作ってしまったのです。
    光海君に排除された西人と綾陽君は、仁祖反正の1年ほど前から反正の準備を始めていました。しかし、1623年3月に計画が事前に漏れてしまったために、急遽、反正を実行することになりました。この時の李适を隊長とする反乱軍の額には「義」という字を書いた鉢巻きが締められていました。反乱軍は、都の北西の門である彰義門から中に入り、光海君のいる昌徳宮に向かいました。鎮圧軍もすでに反乱軍側と内通していたために大きな攻撃を受けることもなく昌 徳宮に入ることができました。そして昌徳宮の正門である敦化門に火を放って勝利宣言しました。

    反正が成功した後、論功行賞が問題となります。西人派は自分たちの地位を守るために反対派を除去しようとし、李适はわずか二等功臣に記録されただけで、平安道兵馬節度使兼副元帥として辺境防衛を担当させられてしまっえ女真族の勢力を防ぐため に李造が必要だったからです。しかし、西人派は、この人事を利用して李适ら北人派を除去しようとたくらみ、1624年1月に李适らが謀反を計画していると主張します。身の危険を感じた李适は、反乱を起こすことを決意、9日後の2月10日に漢城を占領しました。仁祖は漢城から逃げ出し、李适は王を名乗ります。ですが、政府軍の巻き返しにより京畿道利川まで敗退。李适は部下に首を切られてしまい、三日天下に終わりました。

    この戦いにより、北方の主力部隊がなくなり、北辺防備がおろそかになってしまいます。また、女真側に逃げた一部の兵の訴えから、後金に朝鮮侵攻の口実を与えてしまいました。こうして李适の乱は、続く丁卯胡乱の原因をつくってしまったのです。

公山城…李适の乱の際に仁祖が避難

    また、この内乱によって軍事力が弱っているときに北から女真族の興した後金が二度にわたって攻めてきました。1627年の〝丁卯胡乱(チョンミョ ホラン)〟、1636年の〝丙子胡乱(ピョンジャ ホラン)〟です。そして、朝鮮にとっては屈辱的な〝三田渡(サムジョンド)の盟〟によって、それまでの明との関係を断ち切って清と君臣関係を結ぶことになってしまいました。また、仁祖の長男の昭顕世子は人質として清に送られてしまいます。世子は1645年に帰国しましたが、仁祖と不仲になり、2ヶ月後に病死してしまいました。
    後金とどう付き合っていくかについては、前王の光海君も悩んでいました。すでに16世紀末には、後金を興した女真族が満州をめぐって明と争っていたからです。光海君は、一度は明の要請で軍を出しましたが、途中で後金に下り、明と後金の両者からの中立政策をとっていました。というのも、朝鮮社会が豊臣秀吉の朝鮮侵略による大きな被害から脱し始めたばかりだったからです。光海君と大北派は実を取ることにしたのです。
    しかし、仁祖と西人派は、明を宗主国として仰ぐという原則に従って〝親明反金〟政策を採用しました。そもそも、後金に下った光海君から王位を奪った以上、そうするしかなかったのです。その後、後金との関係は急速に悪化し、2度の戦争が起こりました。国内経済は混乱し、民衆の信頼はいっそう失われ、王への不信が増していきました。
【 三田渡の屈辱 】
    17世紀は、朝鮮の北隣で女真族の力が急速に伸びた時代でした。この女真族への対応は、光海君と仁祖で正反対でした。女真族は1616年に後金を興します。光海君の明、後金中立政策に対して、仁祖は〝親明反金〟政策を行いました。これに対抗して、後金は3万の兵で朝鮮を侵攻します。(丁卯胡乱)
    李适の乱で国防力の落ちていた朝鮮は、あっという間に国の北部を占領され、仁祖は江華島に避難しました。結局両国は兄弟国として対等な国であるとする和約が結ばれます。しかし、後金は和約に反して、朝鮮に君臣関係を要求するようになりました。そして、国号を清に変えた1636年、清の太宗が漢城まで攻め込んできました。(丙子胡乱)
    王は、王妃や王子を江華島に避難させ、自身も南漢山城に立てこもりましたが、後に降伏することになります。両国は和約を結びましたが、この時の清の要求は、明との関係を断って清と君臣関係を結び、昭顕世子ら3人を人質として清に送ることでした。朝鮮人は女真族を未開人と見ており、その下に入ることは屈辱以外の何ものでもありませんでした。ですが、結局、仁祖は1637年、漢江南側の三田渡で清に臣従する儀式、〝三跪九叩頭の礼〟を行い、清の下に入ることになりました。
ホンタイジに三跪九叩頭の礼をする仁祖

★民心は安定させられず

    仁祖は李适の乱の後、社会の安定策をとろうとしていました。まず、軍の立て直しを図り、北方と沿岸防備を補強しました。また、漂流してきたオランダ人、ウェルテフレーから大砲の製作方法を教わり、軍の火力を増強しました。
ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー像

    民心の安定のためにもいくつかの施策を行いました。第一に、光海君の時に始められた〝大同法〟の適用範囲を漢城周辺の京畿道だけだけでなく、江原道まで広げます。大同法とは、政府から割り当てられた各地方の特産物を現物で納めるそれまでの貢納制度を改め、現物ではなく米、布、銭で納めさせるようにしたものです。貢納制度は、地方の実情に合わない物品が要求される場合も多く、そのため、請負人に品物を調達させて代納させることもありました。請負人は農民からそれにかかった費用を取って利ざやを稼ぐのですが、結局、逃亡農民が増えてしまい、その弊害を改めようとしたのです。
    商業は漢城では古くから発達していましたが、16世紀に入ると地方でも市場が増えて始めていました。1633年、仁祖は〝常平通宝(サンピョントンポ)〟を発行し、経済を活性化させようとしましたが、丙子胡乱によって思うように広まりませんでした。
    仁祖が行った政策は、その多くが光海君の時代にも行われていたものだったので、民間の求心力を強めることにはなりませんでした。クーデターで王になったという正統性の弱さや、明に対する事大主義を貫こうとしたあまりに、屈辱の一生を送ることになってしまいました。

たいしょーの朝鮮王朝史

朝鮮王朝518年の歴史をここに。

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