端敬王后 愼氏(廃妃 愼氏)
★王后(中宗第1夫人)
端敬王后愼氏(タンギョン ワンフ シン氏)
※廃妃愼氏
本貫:居昌愼氏
☆生没年
1487年〜1557年
☆在位期間
1506年〜1506年
☆宗室
【父】
愼守勤(シン スグン)
【母】
永嘉府夫人権氏(ヨンガブ プイン クォン氏)
【夫】
中宗/晋城大君(チンソン テグン)
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端敬王后愼氏は益昌府院君、愼守勤の娘で、燕山君の后、廃妃愼氏の姪でもあります。端敬王后は1487に生まれ、1499年に12歳で晋城大君と結婚し、1506年、晋城大君が王に推戴されるとともに王后につきました。しかし、父方の叔母が燕山君の后という理由で、わずか7日で廃位されました。
〝中宗反正〟の功臣勢力からは、愼氏が王后になった場合、自分たちの手で殺した父親の愼守勤の仇討ちに乗り出すことを恐れ、中宗の懇請にもかかわらず、愼氏を廃位すべきだと主張しました。結局、中宗も功臣たちの圧力に押されて彼女を廃してしまいました。
愼氏は最初、河城尉、鄭顕祖(チョン ヒョンジョ)の家に追い出されましたが、その後、実家へ戻りました。1515年に中宗の継后、章敬王后尹氏が亡くなったとき、愼氏を復位させるべきだという世論が持ち上がったものの、李荇(イ ヘン)、権敏手(クォン ミンス)の反対で実現しませんでした。
【 チマ岩の逸話 】
愼氏の廃位については〝チマ岩〟の話が伝えられています。功臣たちの圧力に負けて愼氏を廃位したものの、彼女への中宗の愛情は特別でした。そのため中宗は、彼女が恋しくなると、高い楼閣に上って彼女の実家のある方を眺めました。そうした事実を耳にした愼家の人たちは、中宗の切ない恋心を慰めるために、家の裏山にある岩の上に、愼氏が宮中にいた頃によく着ていた薄紅のチマを広げて置きました。王はその岩に広げられたチマを眺めながら、愛しい愼氏への思いをなだめていたといわれています。
愼氏には子は生まれず、生涯独りで寂しく暮らしたのち、1557年に70歳で死去しました。その後、復位され端敬王后という諡号を受けるのは英祖の時代でした。
墓は温陵。
温陵
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