英祖

★朝鮮21代王

    英祖(ヨンジョ)/李昑(イ クム)
      ↑
    延礽君(ヨニングン)
【←景宗/正祖→】
☆生没年
    1694年〜1776年
☆在位期間
    1724年〜1776年
☆宗室→家系図
【父】
【母】
【后】
【子】
▽靖嬪李氏
▽映嬪李氏
  • 莊祖(チャンジョ)荘献世子(チャンホン セジャ)/思悼世子(サド セジャ)
  • 和平翁主(ファピョン オンジュ)
  • 翁主
  • 翁主
  • 翁主
  • 和協翁主(ファヒョプ オンジュ)
  • 廃和緩翁主(ファワン オンジュ)
▽貴人趙氏
▽廃淑儀文氏
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★世弟冊封を拒んだ英祖

    英祖は、朝鮮王朝の中で最も在位期間が長く、51年もの間、王位に就いています。そして、次の正祖の時代とともに、政治的には比較的に安定し、〝朝鮮王朝中興の時代〟を実行しました。
    51年の治政を敷いた英祖でしたが、最初から強固な統治基盤があったわけではなく、非常に不安定でした。
    粛宗の庶子であった英祖が政治の表舞台に出てきたのは23歳になってから。世子(後の景宗)が病弱で跡継ぎも得られなかったため、異腹の弟である延礽君(後の英祖)に代理聴政をさせることになりました。
    景宗は張禧嬪(チャン ヒビン)の子で、英祖は淑嬪雀氏の子です。淑嬪雀氏は宮女の中で最も地位の低いムスリ(宮中の水汲み女)出身でした。
    しかし、世子代理聴政がきっかけで、世子(景宗)を支持する少論派と延礽君を支持する老論派が激しく対立します。そして、1720年に粛宗が死去し、景宗が即位してからは、体の弱い景宗に対して、老論が延礽君を後継者に推すようになりました。少論と老論の対立の中で、延礽君は自分の身を守るために世弟になることを辞退し続けました。ですが、ついに老論に推されて1721年に世弟に封じられ、代理聴政を許されました。そのようにしてようやく世弟になった英祖ですが、少論の巻き返しにより代理聴政を許されたり取り消されたりが繰り返されてしまいました。さらには、謀反の疑いをかけられた老論が2回にわたって粛清され、その謀反に延礽君も連座したとされました。ですが、延礽君に代わる人物がいなかったために死罪にはなりませんでした。このような脆弱な基盤の上で、かろうじて生き残ることができたのが英祖なのです。
延礽君御身


★李麟佐の乱で本格的な蕩平策開始

    1724年、景宗の死とともに延礽君が王となりました。そして、即位するとすぐに、1725年、党派を超えた政治を行うという〝蕩平(タンピョン)教書〟を発表しました。蕩平とは、各党派から均等に人材を登用することです。王は少論、老論の党争の激しさを身をもって体験してきたからこそ、蕩平策を行ったともいえます。ですが、最初から蕩平策が実施できたわけではありません。景宗の死によって立場が弱くなった少論が巻き返しを図ったからです。中でも、少論急進派の李麟佐(イ インジャ)は、英祖が粛宗の子ではなく、景宗を毒殺したと主張して、英祖を倒そうと反乱を起こしました。これが1728年の〝李麟佐の乱〟です。李麟佐軍は忠清道方面を中心とし、これに呼応して、慶尚道では鄭希亮(チョン ヒリャン)が、全羅道では朴弼顕(パク ピルピョン)が反乱を起こしましたが、いずれも政府側に鎮圧されました。この乱の鎮圧には少論派政権が当たりましたが、これら反乱軍の大部分が同じく少論であったために、少論の勢いは弱まらざるを得ませんでした。ですが、これによって、英祖が蕩平策を実施する条件は整えられ、同時に老論が伸びていくきっかけとなり、英祖の権力基盤は磐石となったのです。
蕩平碑

    蕩平策によって老論、少論の対立が緩和され、王権が安定すると、支配体制を再建するための改革が行われます。まず英祖は1750年に〝均役法〟を施行します。それまで庶民が国防義務の代わりに納めていた麻布と綿布を半分に減らして負担を軽減。減収分は、米や塩など他のもので納税してもよいこととしました。次に身分制度の改革に着手します。本来は親のいずれか一方が奴婢ならばその子は奴婢でしたが、良民の母親と賎民の父親の間に生まれた者は、良民とするようになりました。翌年には、男子は父親の身分を、女子は母親の身分を受け継ぐようになりました。さらに、それまでは官吏になれなかった庶子も、登用の機会を与えられました。加えて、軍制改革や刑罰改革、治水改良など、様々な改革が行われていきました。
    王自身も民心を探るために、一般の両班の服装をして漢城市内を歩くことを好み、民の訴えを聞くために申聞鼓を再び設置しました。徳でもって民の生活を良くすることが、儒教での王の在り方ですが、それを実践したのです。
    一方で、英祖から正祖の時代は、商工業が発達し、それに刺激を受けて実学という学問が発達し始めました。
【 蕩平策による王権強化 】
    蕩平(タンピョン)とは、世の乱れや害を取り除き不偏不党の政策を行うことをいいます。宣祖以降の朝鮮王朝の政治は、党派の動き抜きには語れません。科挙で大量に合格者を出していた当時の朝鮮では、少ない官僚のポストをめぐる各党派の対立が激しかったからです。どの党派が主流になるかで、自分の出世が決まりました。また、その時どきに力を得た党派が、その党派の支持する王を支えて専制政治を行うため、王も党派を無視することはできませんでした。景宗や英祖の即位当初を見るまでもなく、党派の意向が王や世子の命まで左右してしまうことになり、王権は弱体化していきました。
    党争の害を身をもって経験してきた英祖は、各党派の勢力を均衡させて政治を行う蕩平策の実行を決意しました。これによって党争を抑えることができると同時に、王権の確立と伸張を図ろうとしたのです。粛宗の時にも行われてい た蕩平策を本格的に採用したのは英祖と正祖でした。
    そのために、英祖は即位してすぐに蕩平を宣言しましたが、景宗を支えていた少論との関係でしばらくの間、蕩平策の実現は困難でした。しかし、李麟佐の乱で少論が弱まると、英祖はそれを利用して本格的な蕩平策に取り組みます。英祖は老論と少論の双方から大臣を起用する〝双挙互対(サンゴホデ)〟の方法で、両者のバランスをとりました。そして、次第に老論、少論だけでなく、南人、小北からも蕩平策を支持する官吏を〝惟才是用〟すなわち人材中心に登用するようにしました。
    一方で英祖は、朋党の根拠地となっていた「書院」を整理しました。「書院」とは、科挙を受けなかった両班が地方で学問を行ったり、党争に敗れ官職に就けなかった者が故郷に戻り、儒学を教えた民間学校です。その数がとても多く、それぞれが各党派の拠点となっていました。そのために、書院の新設を禁止したり、従来の書院も統合、廃止しました。また、1742年には科挙に合格した者が学ぶ成均館の入口に蕩平碑を建て、1772年には科挙として蕩平科を実施しました。また、婚姻関係も同じ党派の中で行われることが多かったため、英祖は同じ党派の家同士の婚姻を禁止するなど、蕩平策を強める政策を着々と 実行していきました。これらの政策によっ て、王権は強化され政治は安定していきました。
ですが、英祖が行おうとしたのは党派の力を弱めることであって、党派自体を否定することまではできませんでした。そもそも英祖自体が、老論の支持によって王になっているのです。各党派は次第に政権独占のために策略を練るようになり、次第に老論が優勢となっていきました。荘献世子事件も老論とその他の党派の対立が引き起こした事件でした。事件後も引き続き、英祖は蕩平策を進め、そして、正祖の文化政治へとつながっていきます。

★次第に強くなる老論

    そんな中で、英祖を支えている老論の力が次第に強くなっていきました。66歳の時に結婚した2番目の王妃、貞純王后金氏や、荘献世子の妃の恵慶宮洪氏(ヘキョングン ホン氏)の実家が老論派だったからです。このような事情を背景に、少論派などの支持を受けていた荘献世子(思悼世子)の殺害事件が1762年に起きました。
    ですが、荘献世子事件の後、この事件の正当性をめぐり老論が荘献世子を擁護する時派と、反対する僻派に分裂し、時派に南人派や北人派が合流しました。英祖はこれに頭を悩ませ、党派の拠点となっていた書院を整理したり、同じ派閥の家同士の結婚を禁じました。
【 荘献世子の死と老論派の台頭 】
    英祖の蕩平策が安定すると、次第に老論と他の党派が対立するようになり、ついには1762年の荘献世子事件が起きました。英祖は、かつて息子の荘献世子に代理聴政をさせました。世子には南人、少論、小北が接近しましたが、老論らは世子を嫌って、王との仲を裂こうとします。老論が世子の行動はその地位にふさわしくないと上訴するたびに、英祖は世子を叱責しましたが、世子は態度を改めるどころか、奇怪な行動を繰り返すようになりました。そのため、英祖は世子を米びつに閉じ込め餓死させてしまいます。英祖は後にこれを悔やみ荘献世子に〝思悼世子(サド セジャ)〟の名を贈りました。これにより老論は権力を握りましたが、荘献世子の死をめぐり、正当とする僻派と、不当とする時派に分裂。時派には南人や少北が合流し、新たな二大派閥が対立することになりました。
米櫃(復元)
昌慶宮宣仁門


    このような政策で王権を安定するように導いた王ですが、晩年は老人性の病気に悩まされながら、83歳でこの世を去りました。

【 庶子問題と庶孼の要職への登用 】
    朝鮮は一夫一婦制でしたが、同時に妾を持つことも認められていました。しかし、正妻の子と側室の子では待遇がまるで違っていました。官吏への道もその一つです。1415年、太宗の時に制定された〝庶孼(ソオル)禁錮法〟によって、両班の妾の子は科挙を受けることもできず、官職に就くこともできないとされました。
    庶孼の「庶」は良民の妾から生まれた子、「孼」は奴碑の妾から生まれた子のことです。儒教では本妻以外から生まれた子は、本妻の子よりも格下ですが、この頃、両班の妾の多くが奴碑出身だったため、庶孼に対する蔑視はいっそう強かったのです。
    ですが、〝庶孼禁錮法〟に対しては反発もあったので、成宗の時に作られた法律書、〝経国大典〟では妾の身分に応じて、就くことのできる官職を制限するように改正されました。しかし、実際には官職に就くことはほとんどできていませんでした。
    その後も庶孼の数は増える一方で、粛宗の時には庶孼が朝鮮の人口の半分を占めるまでになっていました。実際、増えすぎた庶孼の登用を拒み続けること自体が困難なほどの多さで、官職に就けない庶孼の不満も高まっていき、各地で集団上疏が行われるようにもなりました。特に1724年、官職への登用を求めて5000人の庶撃が集団上疏する事態になりました。これが〝通清(トンチョン)運動〟です。通清とは要職への登用のこと。庶孼の要求を無視しきれなくなった英祖は、1772年、通清を許可して、庶孼も要職に就けるようにしました。最初の頃こそ、同じ要職であっても仮のポストに就任させるという方法がとられましたが、これをきっかけとして庶孼の登用される範囲が次第に広げられていき、第26代王、高宗の頃には庶孼に対する差別はほとんどなくなっていきました。

たいしょーの朝鮮王朝史

朝鮮王朝518年の歴史をここに。

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