高宗

★朝鮮26代王/大韓帝国初代皇帝

    高宗(ゴジョン)/李㷩(イ フィ)
【←哲宗/純宗→】
☆生没年
    1852年〜1919年
☆在位期間
    1863年〜1897年 ※朝鮮王
    1897年〜1907年 ※大韓皇帝 ※生前譲位
☆宗室→家系図
【父】
【母】
【后】
【子】
▽明成皇后閔氏/閔妃
  • 純宗/隆煕皇帝(ユンヒ ファンジェ)
▽純獻皇貴妃嚴氏
  • 英親王(ヨンチン ワン)/李垠(イ ウン)
▽永保堂貴人李氏
▽貴人張氏
  • 義親王(ウィチン ワン)/李堈(イ ガン)
▽宝賢堂貴人鄭氏
▽福寧堂貴人梁氏
▽光華堂貴人李氏
▽宮女廉氏
  • 李文鎔(イ ムンヨン) ※翁主
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★王朝の没落と大院君の鎖国・改革政策

    高宗は、仁祖の三男の7代孫である南延君(ナミョングン)の息子で興宣大院君、李是応(イ ハウン)と驪興府大夫人閔氏の次男として生まれました。名は命福(ミョンボク)。字は聖臨(ソンニム)。
    第25代王、哲宗の死後、朝廷を支配する安東金氏による勢道政治を打破しようと、第24代王、憲宗の母で孝明世子(翼宗)の夫人であった趙大妃は、李是応と結託して彼の次男、命福を王位に就けようと画策します。そして趙大妃は命福を翼宗の養子に入れ、翼成君(イクソングン)に冊封。哲宗の跡を継がせました。
    こうして1863年に朝鮮第26代王として即位した高宗は、わずか12歳でした。そこで趙大妃が垂簾聴政を行い、興宣君を興宣大院君に封じ、摂政の大権を委任したのです。これ以降、興宣大院君は10年間権勢をふるいました。
    興宣大院君は安東金氏の勢道政治を打破して凋落した王権を元に戻そうと、改革政策を行います。まず、党争の元凶となっていた書院の数を大幅に縮小。党派を間わない人材の登用に努め、両班の土地を徹底的に調査して徴税しました。また、民間の租税負担を減ら すために無意味な税をなくし、宮中に特産品を奉じる進上制度を廃止、鉱山の開発を認めるなど、経済の活性化を図りました。興宣大院君によるこうした政治的革新は、国家財政を確立させ、勢道政治の弊害を一掃しました。しかしその一方で、世界情勢を読み取れず、行き過ぎた鎖国政策により国家運営を誤ることになります。
高宗

★関氏一族による政権の掌握

    興宣大院君による鎖国政策は長く続きませんでした。高宗が20歳を迎えて成人すると、親政を願ったからです。1866年に高宗の妃、明成皇后閔氏が老大臣と儒者を利用し大院君の下野を求め攻勢をかけてきたことがきっかけで、高宗が政務を自ら決済すると宣言。大院君も下野しました。
    高宗の親政が始まると、政権は関氏とその親族たちが掌握。関氏一族は日本の修好要請を受け入れ、1876 年に日本と江華島で〝丙子修好条約(江華島条約)〟を締結。斉物浦港と釜山港、元山港も開港するなど、対外開放に向けて動き出します。
    日本との修好以降、高宗はアメリカ、フランスなどとも条約を結び、通商関係を開く開港政策を実施しました。
【開国が招いた朝鮮王朝の落日 】
    高宗の時代、欧米列強の軍艦が通商を求めて朝鮮近隣に盛んに出没するようになります。最初の衝突は、キリスト教徒迫害の巻き添えでフランス人神父が殺された事件ですりフランスはその報復として、1866年に軍艦を引き連れて江華島を占領。朝鮮軍はこれに反撃してフランス軍を撤退させました。これが〝丙寅洋擾〟です。さらに、1871年アメリカの軍艦が江華島に接近してきたために、朝鮮軍が彼らに奇襲攻撃を行いました。朝米間での最初の衝突事件です。この事件の後アメリカは上陸作戦を敢行し、一時的に江華島を占拠します。しかし、大院君の強力な鎖国政策によって、わずか1ヶ月でアメリカは江華島から引き揚げていきました。この二つの事件はフランスとアメリカが朝鮮と通商貿易を行うためにしかけた侵略戦争でした。
    しかし大院君が退き高宗が親政を行うと、鎖国政策から一転して開化政策に転換します。1876年に、前年の〝雲揚号事件〟がきっかけとなり江華島で丙子修好条約(江華島条約)を日本と結びました。これは日本からの修好要請を受けたもので、これ以降、3港を開港 し、アメリカ、フランス、ロシアなどの欧米列強とも条約を結び、通商関係を持つ開港政策を実施します。そして、若い開化派で構成した〝紳士遊覧団〟と修信使を日本に派遣して、新しい文物や制度を視察させました。しかし、国内では開化派と守旧派が対立し、守旧派の中から衛正斥邪派が閔氏政権を糾弾。そして、軍人たちによる〝壬午軍乱〟が起こります。
    その後、高宗は親清政策をとりましたが、東学革命の発生で清と日本の両軍が朝鮮に進駐。日本軍は単独で朝鮮の内政改革を断行し、清軍を攻撃して1894年、〝日清戦争〟が起こりました。これによって、日本による朝鮮の内政干渉はさらに強化されることとなります。

★関妃の暗殺と大韓帝国の成立

    こうした一連の開化政策を行う一方で軍制と官制を改革して、若い開化派を日本に派遣して新しい文物を学ばせました。しかし、国内ではこうした開化派と守旧派との対立が深刻化することになります。そして1882年に〝壬午軍乱〟という兵乱が起こり、再び大院君が実権を握りました。ですが、まもなく清の軍によって大院君が粒致され、朝鮮の自主権は大きく低下します。関氏政権と高宗は親清政策をとるものの、日清戦争で勝利を収めた日本が朝鮮の内政干渉を強めると、1895年、乙未事変が勃発し明成皇后が日本側によって殺害されます。身の危険を感じた高宗はロシア領事館に身を移しました。その後、親 露政権を樹立するものの、世論に押されてー年ぶりに宮殿に戻り、力輸離彫大韓帝国と国号を改め、皇帝に就きました。ですが、日露戦争後の1905年に乙巳保護条約(第二次日韓協約)を日本と締結したことで日本によって統監府が設置され、外交権を奪われました。そして、 日本と親日勢力に強要されて高宗は1907年に退位しました。
大韓帝国初代皇帝御身
皇帝御璽

【 全琫準と東学農民革命 】
    東学農民運動は外国勢力の影響を受けずに、今までの朝鮮の封建秩序を崩壊させ、階級制度を撤廃することを目指した自発的な活動組織でした。これは、新しい近代国家の形成を予感させる民族運動の始まりでもありました。1860年に興った宗教、東学の強い組織と力、そして理念を背景に持っていたため、多数の農民と自覚的な両班が参加し、巨大な民衆運動となりました。東学教徒たちは、万民が平等で、理想的な社会建設を目指し、革命的な農民蜂起を主導することになります。これは、韓国史上初の民衆革命でした。
    この革命の指導者となったのが全琫準(チョン ボンジュン)です。彼は外国勢力が押し寄せてくるのを見て、民族と国家を守らなければならないと悟り、36歳で東学に入信。そして、社会改革を夢見る革命的な気質を買われ2代目教主、崔時亨(チェ シヒョン)か、東学接主に任命されました。そこで、持ち前の指導力から農民を率いて反乱を起こしました。一時は全州城を占領したものの、官軍と日本軍の派兵により蜂起は失敗に終わりました。

【 朝鮮初の西洋式病院〝広恵院〟】
    広恵院(クァンヘウォン)とは、1885年2月に設立されたアメリカ人宣教師、ホレイス・ニュートン・アレンによって設立された王立の西洋式病院です。アメリカ人医師アレンは、中国の上海で宣教活動したものの、成果を得ることができませんでした。そこで朝鮮行きを決意します。そして、米国公使館所属の医者という身分で、表向きは公使館の従業員と外国人居留民の治療を目的として入国し、活動しました。アレンが韓国に入って2カ月後、〝甲申政変〟が起こります。これは、1884年に金玉均(キム オッキュン)などによって明成皇后の甥である閔泳翊(ミン ヨンイク)が重症を負った事件です。
    閔泳翊は、アレンの外科手術と3カ月間の治療の末、命を取り留めました。そのため、高宗と明成皇后だけでなく大韓帝国の官僚たちから厚い信頼を受けたアレンは、「恵みを広く与える」という意味の広恵院を開設。これは朝鮮初の近代医療機関と 、後にセブランス病院、セブランス医学専門学校、そして現在の延世大学付属病院の前身となりました。アレンの活動は、これまでカトリック教を排斥してきた朝鮮王朝が、宣教師の入国を許して、学校や病院を建設する活動を初めて認め、政策を転換させる重要な契機となったのです。
広恵院

たいしょーの朝鮮王朝史

朝鮮王朝518年の歴史をここに。

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