明成王后(皇后) 閔氏

★王后/皇后(高宗夫人)

    明成皇后閔氏(ミョンソン ファンフ ミン氏)
    本貫:驪興閔氏
☆生没年
    1851年〜1895年
☆在位期間
    1866年〜1895年
☆宗室
【父】
閔致祿(ミン チロク)
【母】
韓昌府夫人感古堂韓山李氏(ハンチャンブ プイン カムゴダン ハンサン イ氏)
【夫】
【王子】
純宗
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    明成皇后閔氏は驪城府院君、閔致祿の娘で、8歳で両親を亡くしたため、天涯孤独の身でした。15歳で興宣大院君(フンソン テウォングン)の夫人の推挙で王后に選ばれ、宮殿に入りました。
    閔氏が王后に選ばれたのは、閔氏の場合、外戚による勢力拡張の可能性がないと見られたからです。興宣大院君は、外戚により政権が握られた純祖憲宗哲宗治世の60年間は勢道政治のために王室が不安定だったと判断し、そのため夫人の閔氏一門から王后を迎えることで王室と政権の安定を図りました。
    ところが、閔氏は幼い頃から聡明で、なかなかの手腕家だったために、王后に就いてから数年もせずに王室政治に関与し始めました。そこで、義父の興宣大院君と政敵関係になり、ついに彼を追い出して政権を掌握しました。
    閔氏と興宣大院君の仲が悪くなった直接的な原因は、貴人李氏の王子、完和君(ワンファグン)を大院君が贔屓し、世子に冊立しようとしたためです。その背景には閔氏を中心とした老論派勢力と新しく登用された南人派と一部の北人派を中心とした勢力間の政治的な葛藤が作用していました。
    大院君との仲が悪化するにつれて、閔氏は絶えず大院君を政界から追い出そうとし、ついには大院君の政敵の安東金氏勢力と、大院君の権力独占を憂慮する趙大妃の勢力、大院君の長男の勢力、そして儒林勢力などと結託して、大院君弾劾上疏を引き出しました。そして1873年、この上疏を契機に大院君は失脚しました。
    大院君の失脚後、閔氏は自分の一族を登用して政権を掌握し、高宗を動かして日本と〝江華島条約〟を結ぶなど一連の開化政策を推進します。しかし、閔氏はその過程で多くの脅威を受けることになりました。
    1882年、閔氏勢力の開化政策に不満を抱く衛正斥邪派と大院君勢力が〝壬午軍乱〟を起こして閔氏を殺害しようとしました。閔氏は危険を察知するとすばやく宮女の服に着替えて宮殿を抜け出し、閔応植(ミン ウンシク)の邸宅に逃げ込みます。そして密かに高宗と接触しながら、清に軍兵の支援を要請しました。閔氏の要請で出動した清軍は大院君を拉致して清へ連行し、閔氏は難を逃れました。
    この事件後、政界復帰を果たした閔氏は親清政策を実施しましたが、それにより開化派の不満が高まり、〝甲申政変〟が起こりました。一時、開化派に政権を奪われましたが、再び清軍の助けで政権を取り戻しました。
    それから閔氏は外交に力を入れ始めます。1885年にロシアの南進政策を牽制するために、イギリスの軍艦が全羅道の巨文島を占領する〝巨文島事件〟が起きると、メレンドルフを日本に派遣してイギリスとの事態収拾を図る一方、ロシアとも接触、清との関係でも大院君の帰国を黙認するなど、柔軟な関係を維持しました。
    1894年、東学教徒を中心とした農民蜂起、〝東学農民運動(甲午農民戦争)〟が起こり、朝鮮の政局が混迷したとき、朝鮮に積極的な攻勢をかけていた日本はこれに関与し、興宣大院君を立てて閔氏勢力を除去しようとします。しかし、閔氏は日本の野心を見抜き、親露政策を取ることで日本に対抗しました。この時、すでに日本はロシア、フランス、ドイツの三国干渉により、日清戦争で得た遼東半島を返還させられていたため、閔氏の親露政策は効果的でした。
    1895年、〝乙未事変〟で閔氏が殺害されると、日本軍は高宗に命じて閔氏を庶人に降格させました。しかし、その年の10月に閔氏を王后に復位させる詔書が下され、国葬で粛陵へ安置されました。そして1897年には明成皇后に追封されると洪陵に移送されました。高宗の死後、再び移送されました。

閔妃
※閔妃(明成皇后)の写真の真偽に関して現在も様々な論議がなされています。以下ではそのうちのいくつかを紹介しています。

たいしょーの朝鮮王朝史

朝鮮王朝518年の歴史をここに。

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