純宗

★朝鮮27代王/大韓帝国2代皇帝/

   大日本帝国李王

    純宗(スンジョン)/李坧(イ チョク)
【←高宗
☆生没年
    1874年〜1926年
☆在位期間
    1907年〜1910年 ※大韓帝国滅亡
☆宗室→家系図
【父】
  • 高宗
【母】
【后】
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★日本の植民地化で主権を発揮できず

    純宗は高宗の長男で母は明成皇后閔氏。名は坧。字は君邦(クンバン)。号は正軒(チョンホン)。誕生の翌年に玉世子として冊封され、9歳で純明孝皇后閔氏を世子嬪に迎えました。1897年に大韓帝国が樹立されると、皇太子に封じられます。1904年、純明孝皇后が若くして死去すると、1906年に純貞孝皇后尹氏を皇太子妃に迎えました。
    しかし、純宗が王位に就いた背景には父、高宗の受難と没落の影がついてまわります。1907年、〝ハーグ密使事件〟で、高宗は自分が批准していない〝乙巳保護条約(第二次日韓協約)〟の無効を国際的に訴えようとしました。
高宗と純宗

    そのため、日本は植民地化の最大の障壁である高宗を強制的に退位させて、同年、純宗を王位に就かせます。
    純宗は朝鮮第27代王であり、大韓帝国の第2代目皇帝として即位し、年号を光武から隆熙に改めました。そして皇太子に異母弟の英王を冊立し、徳寿宮から昌徳宮へ移ることになりました。
    このようにして、純宗は王位に就いたものの、日本の圧力によって政治的な能力を発揮できないまま、韓国軍隊を解散し、司法権を奪われて屈辱的な道のりを歩むことになりました。
    1907年7月、日本は〝丁未七条約(第三次日韓協約)〟を強制的に批准させます。これによって、日本が設置した行政官庁である統監府は大韓帝国の政治に干渉できるようになり、政府のそれぞれの機関の長官を日本側が任命しました。これを次官政治といいます。
    そして日本は、財政不足を理由に大韓帝国軍を強制解散させました。1909年7月には〝己酉覚書〟を締結して、司法権までも強奪してしまいます。こうして、純宗は傀儡皇帝になってしまったのです。
    統監府の初代統監、伊藤博文が日本に戻ると、曾禰荒助や、軍人出身の寺内正毅が統監として赴任し、日本による大韓帝国の植民地化計画は強化されることになります。日本は、1909年7月に己酉覚書の閣議で〝日韓併合実行に関する方針〟を通過させました。そしてロシアと事前に満州問題を交渉させるために、伊藤博文を派遣しました。
    しかし、中国のハルビンで安重根が伊藤博文を射殺する事件が起こります。この混乱に乗じて、日本は朝鮮半島武力独占計画を実行に移すようになりました。
    1910年5月に第3代統監に就任した陸軍大臣、寺内正毅は、韓国に赴任すると憲兵警察制度を創始するとともに、一般警察制度の整備を進めました。
【 義兵闘争と日韓併合 】
    統監府は、1905年の〝乙巳保護条約(第二次日韓協約)〟が漢城に基づいて日本に設置した行政官庁です。1910年8月の日韓併合より、大韓帝国政府と統合して朝鮮総督府に改組されました。統監府の初代統監は伊藤博文、2代目は曾禰荒助、3 代目は寺内正毅。伊藤、曾禰と文官が就任した後、寺内以降は武官が就任しました。
    1909年10月26日、統監である伊藤博文を乗せた特別列車が満州のハルビンの駅に到着しました。伊藤はロシアの財務大臣、ココツチェフとの列車会談を終えて、ロシア将校団を視察しました。そして歓迎する群衆の方に向かい足早に移動しようとしました。その時、群集の中から一人の青年が飛び出し、伊藤に拳銃を向けて発射したのです。3発の弾 丸が命中し、伊藤はまもなく息を引き取りました。そして、その青年はその場で取り押さえられ、逮捕されました。
    この青年の名前は安重根。ロシア検察官の予備尋問によると、韓国義勇兵参謀中将で31歳の男であることがわかりました。安重根の供述によると、動機は伊藤が大韓の独立主権を奪った元凶であること、大韓国義勇軍指令の資格で伊藤を銃殺した、と述べました。
    安重根の裁判は秘密裏に行われました。伊藤と日本帝国の蛮行を糾弾する、安重根の鋭利かつ理路整然とした弁舌が公になるのを敬遠したからです。安重根の死刑執行は3月26日の中国旅順監獄刑場。死刑の数日前、安重根は2人の弟と面会して遺言を残しました。 「私が死んだ後、我が国が独立するまで死体を国内に移して葬式を執り行ってはならない。大韓独立の声が天国に届けば私は当然踊って万歳を叫ぶはずだ」と言ったといいます。一方で、日本の植民地計画が露骨になると、各地で義民が蜂起し、日本軍を攻撃しました。そして、民族の底力で日本に奪われた土地や主権を回復しようと、愛国啓蒙活動が行われることになるのです。
    伊藤博文が安重根に狙撃されて死去すると、日本はこれを機会に韓国を併合しようと企みます。1910年に第3代統監に寺内正毅が任命されると、寺内は憲兵警察制度を創始し、韓国警察と日本警察を統合しました。そして一般警察権まで確保しました。同年8月22日、日本は大韓帝国に日韓併合条約に調印させました。この併合により韓国は日本国領となり、統監府を前身とする朝鮮総督府が京畿道京城府の景福宮に設置されました。日本は韓国の国号を朝鮮と改称、初代朝鮮総督には引き続き寺内正毅が就任。寺内以降、総督は現役や予備役の陸海軍大将が就任することになりました。
    日本は親日勢力の李完用(イ ワニョン)、宋秉畯(ソン ビョンジュン)、李容九(イ ヨング)などを中心とした一進会を利用して、朝鮮人の請願で朝鮮と日本が合併するという論理をつくり出しました。
    そして1910年8月29日、〝日韓併合条約〟を成立させ、大韓帝国が滅亡しました。この内容は、「韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝陛下に譲与す」 というものでした。
    しかし、当然ながら韓国国民の反発が予想されたため、発表は万全を期して行われました。条約成立が迫る8月24日、政治集会を一切禁止した後に、純宗は国を日本に譲与するという勅諭を下し、新聞紙上に合併の事実が発表されました。
純宗皇帝御車

★各地で起こる主権回復運動

    このように、高宗〜純宗の時代は日本の監視下に置かれていたため、大韓帝国内では純宗の即位時より、全国各地で義兵が蜂起するようになります。日本軍を攻撃し、日本によって奪われた主権を回復しようという愛国啓蒙運動が活発に展開されるようになったのです。しかしながら、こうした主権回復運動は、内部で強硬派と穏健派に分かれていたため、民族抵抗運動がひとつにまとまることができず、大韓帝国の亡国を防げませんでした。
    日本によって大韓帝国が滅ぼされた後、純宗は皇帝から王に降格され、昌徳宮にとどまることになります。日本は昌徳宮にいる純宗を李王と呼び、王に当する待遇をしました。廃位後の純宗は16年間昌徳宮で過ごし、1926年、53歳で死去しました。
大韓帝国記念メダル

たいしょーの朝鮮王朝史

朝鮮王朝518年の歴史をここに。

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