純祖
★朝鮮23代王
純祖(スンジョ)/李玜(イ ゴン)
☆生没年
1790年〜1834年
☆在位期間
1800年〜1834年
☆宗室→家系図
【父】
【母】
- 綏嬪朴氏(スビン パク氏)
【后】
【子】
▽純元王后金氏
▽淑儀朴氏
- 永温翁主(ヨニョン コンジュ)
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★吹き荒れるキリシタンの弾圧
純祖は正祖の次男で、母は綏嬪朴氏。1790年に生まれ、名は玜。字は公宝(コンボ)。正祖と宜嬪成氏(ウィビン ソン氏)との間に生まれた文孝世子(ムニョ セジャ)は早くに亡くなったため、1800年に王世子に冊封されました。そして、その年の6月に正祖が死去すると翌月、11歳で即位します。そのため、英祖の継妃で大王大妃の貞純大妃(チョンスン テビ)が垂簾聴政を行うことになりました。
玉璽を握った貞純王后は、実家の又従兄弟の金観柱(キム グァンジュ)を吏曹参判の座に就けました。そして、僻派を大量に登用し、正祖の蕩平策を支持していた人物を虐殺していきました。
純祖御筆
さらに、王の即位を公布する文章で「邪学と異端を排斥する」という意味の〝斥邪(チョクサ)〟を掲げました。これはキリスト教徒弾圧を予告するもので、その後、直ちにキリスト教禁止令を発布し、過酷な弾圧を行いました。その理由は、一つには、上下関係を重んじる朝鮮王朝では、儒教倫理の根本を否定する平等思想のキリスト教の教えが危険視されたからです。二つ目に、信者の中に時派と南人派が多かったことも挙げられます。弾圧の陰には、政敵を排除する狙いがあったのです。
庶民へは、朝鮮時代の初期から施行された〝五家作統(オガチャクトン)法〟という、五世帯の相互の監視法令も利用され、一軒でもキリスト教徒が出た場合は、五軒を同罪として処罪しました。これにより、全国で数万人の死者が出ました。
丁丑入学図帖
★安東金氏の勢道政治
1804年、純祖が15歳になり、親政が始まります。これは、正祖の遺志を受けていた永安府院君、金祖淳(キム ジョスン)一族による安東金氏の勢道政治の始まりでした。娘を純祖の王妃にし、王の義父となった金祖淳は、幼い王の側に仕えながら、朝廷の要職を一族で独占。以降、60年にわたって権力を掌握しました。そしてこの時期より、専横と賄賂収受が横行し、政治紀綱が崩れて、身分秩序の崩壊と王朝社会の基盤が揺らぎ始めます。また、悪政に対する国民の不平不満が高まり、農民の反乱も絶えず起こり、社会全体が荒れました。純祖は34年間王位にとどまりましたが、44歳で死去しました。
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