憲宗
★朝鮮24代王
憲宗(ホンジョン)/李烉(イ ファン)
☆生没年
1827年〜1849年
☆在位期間
1834年〜1849年
☆宗室→家系図
【父】
- 文祖(ムンジョ)翼宗/孝明世子(ヒョミョン セジャ)
【母】
- 神貞王后趙氏(シンチョン ワンフ チョ氏)
【后】
【子】
▽孝定王后洪氏
- 公主
▽淑儀金氏
- 翁主
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★急変する社会情勢と迫る外国勢力
憲宗は純祖の孫にあたります。孝明世子(後に翼宗、文祖と追尊)の息子で母は豊恩府院君、趙万永(チョ マニョン)の娘の神貞王后。1827年に生まれて、1830年に王世孫に冊封されます。純祖が亡くなると、わずか8歳で即位した憲宗は、純祖の王妃の純元王后(スヌォン ワンフ)の垂簾聴政を受けることになった憲宗が親政を行うのは15歳になってからでした。この頃は朝鮮社会の崩壊の序章ともいえる内憂外患の時代でした。勢道政治の影響で、官吏任用の根幹となる科挙制度が崩れ政局が混乱。また、先代よりカトリック教弾圧は続けられていました。幼くして即位した憲宗の治世は、困難の多いものでした。憲宗が11歳になると、金祖根(キム ジョグン)の娘を妻にします。これが孝顕王后です。国舅である金祖根は安東金氏一族の中心となります。ところが、王妃が突然病気で死去したため、1844年に洪在龍(ホン ジェリョン)の娘を継妃に迎えることになりました。
政治面では、純元王后の垂簾聴政が終わると安東金氏が縮小して豊壌趙氏の勢力が優勢となります。豊壌趙氏は憲宗の母、趙大妃の父、趙万永がその巨頭でした。一時は豊壌趙氏が優勢でしたが、1846年に再び安東金氏一門が権力を握るようになります。このような政権争いのために、民の暮らしや社会問題が 顧みられなくなり、政治が乱れました。
また、民の暮らしが悪化し、農民層が流民になるケースが増えていきました。さらに、1836年〝南膺中(ナム ウンジュン)の謀反〟と1844年〝関晋鏞の獄〟の二度の謀反事件が起こります。これは政治勢力を持たない中人や没落両班が起こした事件で、王の権威や政治権力が低下したことを示す出来事でした。
さらにこの頃から朝鮮は、外国船を率いた西洋列強による通商と門戸開放の要求に攻められて、本格的に外国勢力に対応しなければならなくなりました。外国船の出没に朝廷はこれといった対策も立てられないまま、権力争いに夢中になっていたのです。
このように憲宗の治世は勢道政治の影響から抜けられず、本格的な民生安定策も立てられず、西洋列強の脅威にさらされていました。その中で憲宗は23歳の短い生涯を終えました。
首善全図…19世紀半ばの漢城の地図
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