哲宗

★朝鮮25代王

    哲宗(チョルジョン)/李昪(イ ビョン)
【←憲宗/高宗→】
☆生没年
    1831年〜1864年
☆在位期間
    1849年〜1863年
☆宗室→家系図
【父】
【母】
【后】
【子】
▽哲仁王后金氏
  • 大君
▽貴人朴氏
  • 王子
▽貴人趙氏
  • 王子
  • 王子
▽淑儀方氏
  • 翁主
▽淑儀范氏
▽淑儀金氏
  • 翁主
▽宮女李氏
  • 王子
  • 翁主
▽宮女朴氏
  • 翁主
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★突然の王位継承

    哲宗は、自分も知らないところで、突然王に選ばれました。王位は通常、前王の死去によって継承されます。たいていは世子、世孫などが決まっていて、新王に即位しますが、後継者が決まらないまま王が死ぬ場合もありました。第24代の憲宗は跡継ぎを残さず、そして決めずに死んでしまったのです。それだけではなく、憲宗には近親とされる六親等以内の男子がいませんでした。それゆえ、王室は大急ぎで跡継ぎを探さなければならなくなってしまいます。
    王室は第23代の純祖の頃から外戚である安東金氏の力が強くなり、政治の実権を握っていました。一方で、次の憲宗の時代は、母親である趙大妃を通じて豊壌趙氏が政治の実権を握ろうとしました。そのため、両者の勢力争いが激しくなりました。その中でいち早く 手を回したのが、純祖の王妃で、安東金氏側の純元王后でした。憲宗を背後で支えた純元 王后が白羽の矢を立てたのは、荘献世子(チャンホン セジャ)の曾孫にあたる李元範(イ ウォンボム)。憲宗からすると縁戚で世代が一代上になります。次の王には原則として、世代の下の人を選ばなければなりませんでした。それは、儒教社会では下の世代の者が上の世代を祀ることになっているからです。ですが、安東金氏は自己の勢力を守るために、その決まりを無視してしまいます。
    突然新王になったほうも大変でした。この時は没落した王族として、漢城の近くの江華島で農業を営んでいました。1831年生まれの哲宗は荘献世子の曾孫で、正祖の庶弟、恩彦君(ウノングン)の孫にあたりますが、その血を引いているだけに数々の政争に巻き込まれて、一族の多くが賜薬を下されたり自決に追い込まれていました。哲宗も、1844年に〝閔晋鏞(ミン ジニョン)の獄〟という謀反の巻き添えになっていました。この事件は閔晋鏞が哲宗の兄である李元慶(イ ウォンギョン)を王に推戴しようとしたものでしたが、これが発覚して、李元慶が賜薬により自決させられ、哲宗も江華島に流されたのです。ところが、1849年、19歳の時に突然、王にされました。農業をして学間をしていない人が宮中に呼ばれたのです。
    このような経緯で王になったために、哲宗は帝王学を一切学んでいませんでした。それまでの生活と、王としての生活の落差も激しいものでした。そのため、即位してから21歳になるまでは、安東金氏出身の純元王后が垂簾聴政を行って政治をリードします。21歳になりようやく自立できても、今度は純元王后の近親である金汶根(キム ムングン)の娘が王妃となり、金汶根が国舅の立場で権勢をふるいました。結局、哲宗は安東金氏の勢力が強すぎて、思うような政治ができませんでした。また、安東金氏は自分たちの権力に脅威になりそうな者を殺害することもためらわず、哲宗も身の危険を感じていました。
哲宗御筆

★三政の乱れで混乱を引き起こす

    中央の勢道政治後の影響で、地方役人も汚職を極めていました。このような状態を背景に、哲宗の時代は〝三政の乱れ〟が社会問題になっていました。〝三政の乱れ〟とは、国の重要な財源である「田政(地税)」、「軍政(軍役)」、「還政(還穀)」が混乱に陥っていたことです。田政は、本来の税率だけでなく、多くの付加税が付きました。付加税には地方の役人が勝手に加えたものもあり、農民の負担は苛酷な状態になっていました。軍政も両班層の増加に伴って、貧農へ負担がのしかかります。朝廷によって課された軍布を納めるために、役人は死んだ人や幼児にも負担を賦課する状態になっていたのです。還穀は国が穀物を無利子で貸す制度ですが、そこに高利子をかけたり貸した量をごまかす者も出てきた。政府も暗行御史(アメンオサ)を送り、地方の役人の腐敗を摘発しましたが、焼け石に水でした。
    これらに対する民衆の不満も高まっていました。1862年、慶尚道晋州で地方役人の白楽莘(ペク ナクシン)に対する農民反乱が起きます。これがきっかけとなって、忠清、全羅、黄海、咸鏡、京畿道などで37回にも及ぶ民乱が起きました。〝壬戊民乱〟です。朝廷は緊急に調査官を派遣して乱を収拾し、蜂起した地域の役人を免職としました。また、朴珪寿(パク ギュス)の提案で〝三政釐整庁〟を設け、「三政の乱れ」を収拾するようにしましたが、根本的な原因である安東金氏がいるために、うまくいかず、民乱も起き続けました。
    国内が三政の乱れで混乱している一方、国外からもキリスト教が流入し始めます。このような内憂外患に対して1860年に雀済愚(チェ ジェウ)が東学という宗教を興し、急速に支持を広げました。
    「男を女に変えること以外は何でもできる」といわれていた安東金氏の専政は続き、それを取り除くことができなかった哲宗は、酒と宮女に近づき、酒色にふけってしまいました。そのために急速に体を壊し、1863年に跡継ぎもなく逝去。哲宗が取り除こうと思っ てもできなかった勢道政治の流れを止めるのは、次の高宗の時代まで待たなければなりませんでした。

たいしょーの朝鮮王朝史

朝鮮王朝518年の歴史をここに。

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