仁穆王后 金氏

★王后(宣祖第2夫人)

    仁穆王后金氏(インモク ワンフ キム氏)
    本貫:延安金氏
☆生没年
    1584年〜1632年
☆在位期間
    1602年〜1608年
☆宗室
【父】
金悌男(キム ジェナム)
【母】
光山府夫人光州盧氏(クァンサンブ プイン クァンジュ ノ氏)
【夫】
宣祖/河城君(ハソン グン)
【王子】
永昌大君(ヨンチャン テグン)
【王女】
貞明公主(ジョンミョン コンジュ) 他
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    仁穆王后金氏は、延興府院君、金悌男の娘で、1600年に懿仁王后(ウィイン ワンフ)が死去すると、18歳で王后になりました。
    1606年に永昌大君が生まれると、当時、既に世子の地位にあった、恭嬪金氏(コンビン キム氏)の次男、光海君(カンヘグン)と後継者問題が起こります。柳永慶(ユ ヨンギョン)は〝嫡統論〟に基づいて光海君を廃して永昌大君を王位に推載しようとしました。しかし、宣祖が急死して光海君が即位すると、柳永慶一族は没落し、大北派が実権を握るようになりました。
    大北派は王統の脆弱性を隠蔽するために、恭嬪金氏の長男、臨海君(イメグン)を排除し、続いて永昌大君を庶人に降格させたのち殺害しました。また、仁穆大妃の父、金悌男に自決を命じ、仁穆大妃を廃して西宮に幽閉しました。
    このような光海君の背徳行為が政変を招き、〝仁祖反正〟が起こりました。反正の大義名分として担ぎ出された仁穆大妃も復号し、大王大妃(テワンテビ)となりました。
    1632年に48歳で死去。墓は穆陵。

仁穆王后御筆〝普門経〟

たいしょーの朝鮮王朝史

朝鮮王朝518年の歴史をここに。

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