睿宗
★朝鮮8代王
睿宗(イェジョン)/李晄(イ ファン)
↑
海陽大君(ヘヤン テグン)
☆生没年
1450年〜1469年
☆在位期間
1468年〜1469年
☆宗室→家系図
【父】
- 世祖/首陽大君(スヤン テグン)
【母】
- 貞熹王后尹氏(チャンヒ ワンフ ユン氏)
【后】
【子】
▽章順王后韓氏(1男)
- 仁城大君(インソン テグン)
▽安順王后韓氏(1男1女)
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★院相制と垂簾聴政
1450年、第7代王・世祖 と貞熹王后の次男として生まれました。上には12歳年の離れた兄・懿敬世子がいましたが、1457年に原因不明の病で死亡してしまい、代わりに7歳で王世子に冊立されました。
1460年に世祖の側近、韓明澮(ハン ミョンフェ)の娘の章順王后と結婚し仁城大君をもうけましたが、出産直後に章順王后が死去。その後、韓伯倫(ハン ベンニュン)の娘・安順王后をめとり、斉安大君と顕粛公女をもうけました。
睿宗が即位したのは1468年9月。自らの死期を悟った世祖が譲位しましたが、当時、睿宗はまだ19歳と若く、健康状態もよくなかったため、まともに政務を執れないと判断した世祖は、あらかじめ数名の重臣たちを指名し、彼らが睿宗を支えるような制度をつくりました。これを院相制(ウォンサンジェ)といいました。重臣たちによる摂政のようなもので、世祖に指名された重臣たちが毎日、承政院に出勤し、すべての国政を議論し決定します。王は重臣たちが決めたものを形式的に決裁するだけでした。指名されたのは韓明澮、申叔舟(シン スクチュ)、具致寛(ク チグァン)ら三人の重臣で、のちに10名に拡大されました。
朝鮮では、王が幼くして王位に就いた場合、王の母や祖母が代わりに政務を執る垂簾聴政が行われることになっていました。19歳でしたが、睿宗も貞熹王后が垂簾聴政を行いました。もとは中国の制度にならったもので、三国時代から行われていましたが、朝鮮王朝ではこれが初めてでした。
このように、即位こそしたものの政治の実権は重臣や貞熹王后が握り、睿宗自身が決められることはほとんどありませんでした。しかし、睿宗は兄のピンチヒッターとはいえ世子として15年間も帝王学を学び、さらに即位の2年ほど前から承命代理(スンミョン デリ)として世祖を補佐してきたため、決して政務に疎かったわけではありません。本人も世祖が目指したように強い王権を確立し、自らの力で国政を率いていく意志を持っていました。
★政局の安定に努める
しかし、睿宗が即位した当時の政局は、決して安定したものではありませんでした。韓明澮ら功臣勢力は相変わらず権勢をふるい、そこへ亀城君(クソングン)、南怡(ナム イ)ら武官勢力が新たに成長し、王権を脅かすようになっていました。
南怡は名門出身の武官で、祖父は太宗の四女と結婚したため王族の外戚でもありました。1441年に生まれ、17歳で武科に首席合格。26歳の時、世祖時代の重大事件のーつである李施愛(イ シエ)の乱を鎮圧して大きな功を立て、世祖の寵愛を受けて兵曹判書に抜擢されました。
一方、亀城君は世祖の弟・臨瀛大君の次男で、南怡とともに李施愛の乱を鎮圧して功を立て、28歳で文武百官の頂点である領議政に就きました。睿宗即位当時、兵曹判書と領議政という要職を武官が担っていたのです。
★南恰の獄
睿宗の即位直後、韓明澮ら功臣勢力は目の上のたんこぶである南怡を排除するため、王に進言して南怡を兵曹判書から格下の兼司僕将に降格させます。さらに柳子光(ユ ジャグァン)が南怡を謀反の罪で密告し南怡は捕らえられます。そして、無実を訴る聞き入れられず、拷問の末、処刑されました。これを“南怡の獄”といいます。
この事件は、後に功臣勢力と睿宗が武官勢力を排除するためにでっち上げたものといわれ、南怡は逆賊から名誉回復されましたが、真相は依然として闇の中。しかし、これによって武官勢力が排除され、功臣勢力が再び政界の中枢を独占したことは間違いありません。
★閔粋の史獄
睿宗の即位1年目の代表的な事件が“南怡の獄”だとしたら、2年目は“閔粋(ミン ス)の史獄”がそれにあたります。
王朝の歴史を記録する史官だった閔粋が、世祖時代に自分が書いた記録の中に「韓明澮らが逆心を抱いている」という内容があることから、万が一、これが功臣の耳に入ったら自分に不利益が降りかかるかもしれないと恐れ、記録に手を加えた事件です。
史官が書いた記録は〝史草〟と呼ばれ、国王さえも閲覧できないほど厳重に管理されていました。それを書き換えるなど前代未聞であり、怒った睿宗は自ら尋問にあたりましたが、素直に自白したことから処刑は免除しました。この事件から、当時、韓明澮ら功臣がいかに大きな勢力を誇っていたかが分かります。
このように功臣たちが強大な権力をふるう中、睿宗は突然この世を去りました。即位からわずか14ヶ月後のことでした。まともに王権を行使できないまま最期を迎えましたが、この間、職田収租法の制定、三浦での倭との私的交易禁止、『経国大典(キョングクテジョン)』完成、一般農民の屯田耕作を許可するなど安定した政治を行い、次の成宗時代の隆盛へとつながる懸け橋的な役割を果たしました。
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