成宗
★朝鮮9代王
成宗(ソンジョン)/李娎(イ ヒョル)
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乽山君(チャルサン グン)
☆生没年
1457年〜1495年
☆在位期間
1469年〜1495年
☆宗室→家系図
【父】
- 徳宗/懿敬世子(ウィギョン セジャ)
【母】
- 昭恵王后韓氏(ソヘ ワンフ ハン氏)/仁粋大妃(インス テビ)
【后】
- 恭恵王后韓氏(コンへ ワンフ ハン氏)
- 廃妃尹氏(ペビ ユン氏)/斉献王后(チェホン ワンフ)
- 貞顕王后尹氏(チョンヒョン ワンフ ユン氏)
- 明嬪金氏(ミョンビン キム氏)
- 貴人鄭氏(クィイン チョン氏)
- 貴人権氏(クィイン クォン氏)
- 貴人嚴氏(クィイン オム氏)
- 貴人南氏(クィイン ナム氏)
- 昭儀李氏(ソイ イ氏)
- 淑儀洪氏(スギ ホン氏)
- 淑儀河氏(スギ ハン氏)
- 淑儀金氏(スギ キム氏)
- 淑儀鄭氏(スギ チョン氏)
- 淑容沈氏(スギョン シム氏)
- 淑容権氏(スギョン クォン氏)
- 淑媛尹氏(スグォン ユン氏)
【子】
▽廃后尹氏
- 燕山君(ヨンサン グン)
- 大君
▽貞顕王后尹氏
▽明嬪金氏
- 茂山君(ムサングン)
▽貴人鄭氏
- 安陽君(アニャングン)
- 鳳安君(ポンアングン)
- 静恵翁主(チョンへ オンジュ)
▽貴人権氏
- 全城君(チョンソングン)
▽貴人嚴氏
- 恭慎翁主(コンシン オンジュ)
▽淑儀洪氏
- 完原君(ワンウォングン)
- 檜山君(へサングン)
- 甄城君(キョンソングン)
- 益陽君(イキャングン)
- 景明君(キョンミョングン)
- 雲川君(ウンチョングン)
- 楊原君(ヤンウォングン)
- 恵淑翁主(ヘスク オンジュ)
- 静順翁主(チョンスン オンジュ)
- 静淑翁主(チョンスク オンジュ)
▽淑儀河氏
- 桂城君(ケソングン)
▽淑儀金氏
▽淑容沈氏
▽淑容権氏
- 王子
- 慶徽翁主(キョンフィ オンジュ)
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★貞熹王后と韓明澮の結託
睿宗が在位わずか14力月で死去した時、次王の指名権を持つ貞熹王后(チョンヒ ワンフ)は3人の王子で頭を悩ませました。一人は正式な継承者である長男、斉安大君(チェアン テグン)で、貞熹王后は幼すぎるという理由で彼を除外します。残りの二人は世祖の長男、懿敬世子の息子たちで、長男の月山大君は病弱という理由で除外。次男の乽山君が王に指名されました。これが第9代王、成宗です。当時13歳でした。
長男を差し置いて王位に就いた成宗を、貞熹王后はその資質と度量が王にふさわしいと評しましたが、その背景には貞熹王后と、乽山君の養父である韓明澮(ハン ミョンフェ)の結託がありました。韓明澮という絶大な後ろ盾を持つ乽山君を王にし、互いの勢力安定を図ったのです。
こうして、朝鮮王朝は再び幼い王を戴くことになり、朝廷は成宗が成人するまでの7年間、成宗の祖母である貞熹王后による垂簾聴政と、韓明澮ら功臣たちによる院相制を中心に運営されました。
彼らはまず、当時王族の中で最も強い勢力を持っていた亀城君(クソングン)を流罪に処 し、王権を脅かす存在を排除しました。亀城君は世祖の弟、臨瀛大君(イミョンテグン)の息子で、 李施愛の乱鎮圧で功労を立て世祖の寵 愛を受けましたが、成宗にとっては脅威でした。結局、亀城君は流刑地で生涯を終えます。
礼林書院
★親政開始、士林派を登用
こうして貞熹王后と韓明澮ら功臣勢力によって主導されてきた国政が、1476年を境に一変します。成宗が自ら政務を執るようになり、臣下たちの手にあった権力を取り戻していきます。
まずは院相制を廃止し、王命の出納と事務決裁を自ら行使するようにします。そして、弘文館(ホンムングァン)を拡大・再編し、新たな人材の育成に乗り出しました。弘文館は、世祖代に廃止された集賢殿と似たような機能を持つ機関で、学間の研究とともに王の諮問機関としても重要な役割を担いました。
中でも成宗が力を入れたのは人事采配で、当時、朝廷を専横していた功臣勢力を牽制しつつ、彼らの影響下から抜け出して新しい政治を展開できるよう、士林派の人材を大挙登用しました。また、優れた人物がいると聞けば、機会が訪れるたびに呼び寄せました。その一人が、士林派の巨頭、金宗直です。
こうして朝廷は功臣勢力と士林勢力が競い合いながら均衡を成し、大きな反乱や事件もなく、安定した政治が行われました。
【 朝鮮の憲法『経国大典』】
『経国大典(キョングクテジョン)』とは、朝鮮王朝を統治する基本となる法典で、今で言う憲法にあたります。第7代王、世祖の時代に編纂が開始され、睿宗代に完成しましたが、頒布には至らず、成宗代になって何度か修正が加えられた後、1485年に頒布されました。
朝鮮王朝は、建国当初から法治主義を標傍し、建国功臣の鄭道伝(チョン ドジョン)が建国から3年目の1394年に早くも『朝鮮経国典』を上呈し、1397年には『経済六典』が頒布されました。しかし、その後も新たな法律が次々と制定され、前後に矛盾する事態も起こり始めたため、もう一度すべてを集め、整理しようということで編纂されたのが 『経国大典』です。つまり朝鮮王朝における法律の集大成というわけです。 『経国大典』は吏典・戸典・礼典・兵典・刑典・工典の六典から成り、これは朝鮮王朝の6つの行政組織に対応しています。吏典は中央および地方官吏の組織、戸典は財政経済と租税制度、礼典は科挙・儀礼・外交関係、兵典は軍事制度、刑典は刑罰・裁判、工典は道路・交通・度量衡・工匠に関する事柄が規定されており、たとえば刑典には奴婢の出産休暇に関する決まりや、礼典には収賄に関わった官吏の子孫は科挙に受験できないなどの条文もあります。
『経国大典』はすべての法律に優先する最高法として君臨し、朝鮮王朝の国家運営の規範となりました。
★禍根を残した離婚
成宗は幼い頃から読書を好み、王の授業ともいえる経筵では重臣たちとの議論を楽しみました。本に夢中になると時間も忘れて読みふけり、周囲の者が心配するほどでしたが、夜ともなれば気の置けない臣下たちとともに酒を酌み交わし、時にお忍びで妓楼に出かけることもありました。
情に厚く、友愛が深く、孝行心も強かった成宗の時代は祖母の貞熹王后も母の仁粋大妃も健在で、成宗は彼女たちが退屈しないよう、たびたび宮殿で宴を開きました。妃も多く、正室3人に側室9人を抱え、16男まれました。この正室の一人が、悪名高き廃妃、斉献王后尹氏です。
最初の結婚は11歳の時、相手は韓明澮の次女・恭恵王后でした。しかし、 彼女が19歳で夭折すると、成宗は当時寵愛していた側室の尹氏を正室に迎えます。妊娠中だった尹氏はまもなく後に燕山君となる息子を生み、この頃から尹氏の倣慢さと嫉妬深さが激しくなりました。成宗は彼女を遠ざけるようになり、尹氏は側室に呪いをかけたり、毒薬で悪事をたくらんだりと常軌を逸した行動に出るようになります。そして、ついには成宗の顔を爪でひっかくという前代未聞の事件を起こします。怒った成宗は尹氏を廃位し、最後は賜薬を下して自決させました。1482年、王妃冊立からわずか3年後のことでした。この事件が、成宗の跡を継いで王位に就く息子、燕山君の暴政に大きな影響を与えたことは、あまりにも有名な話です。
こうしてよく学び、よく働き、よく遊んだ成宗は、1494年、歴代王たちが少しずつ積み上げてきたものを見事に完成させてこの世を去りました。38歳でした。
【 『東国輿地勝覧』と『東国通鑑』】
成宗の治世は、朝鮮王朝500年の中でも多様な書籍が編纂されたとして評価されています。書籍とはすなわち知識の集積であり、それが土台となって成宗時代は儒教文化の隆盛期を迎えました。
1475年には成均館(ソンギュングァン)の中に尊経閣(チョンギョンガク)を設置して儒教研究に必要な書籍を収集しました。また、有能な人材には学間に専念させる制度も実施し、著書編纂を奨励。こうして幅広い分野の書籍が作られました。
中でも有名なのが『東国輿地勝覧(トングンニョジスンナム)』と『東国通鑑(トングクトンガム)』です。
『東国輿地勝覧』は朝鮮王朝の地理誌で、設置の沿革、郡名、風俗などが朝鮮全土の郡県ごとに記述されています。15〜16世紀の朝鮮研究に不可欠の資料であり、朝鮮地誌の代表として高く評価されています。当初は50巻でしたが、数回の改訂増補を経て55巻の『新増東国輿地勝覧』として今に伝わっています。
『東国通鑑』は新羅初期から高麗末までを編年体で記した歴史書で、56巻28冊から成ります。中国北宋の司馬光が著した『資治通鑑』の体裁に従って編纂され、作業には成宗自らも関与しました。成宗と士林の歴史認識がよく反映された朝鮮王朝前期の代表的な歴史書です。
★垂簾聴政から士林派の台頭へ
成宗以前の朝廷は、主に功臣勢力によって牛耳られてきました。建国当初は朝鮮建国に関わった開国功臣が主導権を握り、彼らが代替わりでいなくなる頃には世祖の王位纂奪に参加した人物たちが靖難功臣として中央政界を牛耳りました。成宗を王位に就けた韓明澮も靖難一等功臣でした。
ところが、世祖も成宗も自分の支持勢力である靖難功臣が中央政界をほしいままにする政治体制をよしとせず、彼らを牽制するために地方の優秀な人材を朝廷に迎え入れるなどし、王道政治を実現していきました。こうして形成されたのが〝士林派〟と呼ばれる新たな政治勢力です。
士林派の起源は朝鮮建国当初に遡ります。建国の祖である李成桂は高麗の中央政府に反旗を翻して新王朝を打ち立てましたが、李成桂と同じような高麗の新進士大夫の中には高麗王朝そのものを否定する李成桂のやり方に賛同できないとして、朝鮮王朝に背向けた人物が少なからずいました。その中心にいたのが鄭夢周(チョン モンジュ)と吉再(キル チェ)で、鄭夢周は朝鮮建国前に暗殺されましたが、吉再は建国後も中央政界への出仕を拒み、元に残って後進の育成にあたりました。
つまり、高麗の新進士大夫のうち、朝鮮王朝の開国功臣として中央政界に進出したのが功臣勢力であり、地元にとどまったのが士林ということになります。そういう意味で、功臣勢力も士林も出発点は同じで、儒教を中心とする国家建設という政治理念を持つところも共通していました。
しかし、中央と地方という立場の違いは、政治思想よりも大きく彼らを隔てます。士林たちは功臣たちが中央で血なまぐさい権力闘争に明け暮れる間、野に埋もれてひたすら勉学に励み、性理学的大義名分を国家の基本理念とすべく思想を磨きました。そんな士林たちにとって功臣は「名分を無視して不義と妥協を繰り返す小人」にしか見えず、功臣たちは士林を「現実も知らずに机上の空論ばかりを繰り返す青二才」とばかにしました。このような現実を知らなかった士林が、成宗時代になってついに現実の政治舞台に躍り出てきたのです。
士林と功臣のもうーつの大きな違いは、士林は地方に確固たる基盤を持っていたことです。彼らは中央政界に進出する以前から、すでに地元では権力者として地域社会を主導しており、地方は彼らを中心に独自の支配体制を築き上げていました。その拠点となったのが留郷所(ユヒャンソ)と呼ばれる機関で、中央集権体制を阻害する性格も持つため、建国以 後、廃止と復活を繰り返していましたが、成宗は地方勢力との協力関係を築くためにこれを復活させました。そして留郷所を地方統治機構に組み入れ、その指導者である士林が中央政界に進出することで、中央と地方の連携が強化されました。
こうして中央政界に堂々たる地位を築いた士林は、以後、何度か粛清の受難に遭いながらもその命脈を保ち、功臣勢力と織烈な政権争いを繰り返す中で、ついに宣祖の時代に政 治の主導権を握ります。そして、功臣派たちが姿を消したあとは、士林自身が分裂を繰り返す朋党政治の時代へと入っていきました。
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