仁宗
★朝鮮12代王
仁宗(インジョン)/李峼(イ ホ)
☆生没年
1515年〜1545年
☆在位期間
1544年〜1545年
☆宗室→家系図
【父】
- 中宗/晋城大君(チンソン テグン)
【母】
- 章敬王后尹氏(チャンギョン ワンフ ユン氏)
【后】
【弟】
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★継母に悩んだ聡明な王
仁宗は、1544年11月30日に30歳で即位し、翌年の7月1日にこの世を去りました。王位に就いていた期間はわずか8カ月。朝鮮王朝の歴代君主のうち、最も在位期間が短かった王です。そして、彼が眠る京畿道高陽市にある陵が「孝陵(ヒョルン)」と名づけられているように、善良で孝行者の人物像を示す数々の逸話でも知られています。
名は峼(ホ)、字は天胤(チョニュン)。1515年2月25日、中宗の長男として誕生しました。母親は中宗の第一継妃の章敬王后尹氏。1520年、6歳で世子に冊封されました。
仁宗は、わずか3歳で文字が読め、8歳で成均館に入る聡明な子でした。また、道学の思想を重んじ、宮女を東宮から追い出し、女性を近づけない清廉潔白な性格だったそうです。中宗が病で倒れた時には、仁宗は父を心配して自ら毒見を行い、回復を願って山川に 祈禧をあげに行きました。中宗が亡くなる と、6日間食事が喉を通らず、5カ月間にわたり泣き続けていたといいます。
多難な半生を伝えるもうーつのエピソードが、仁宗の継母、文定王后尹氏との関係です。仁宗の母の章敬王后尹氏は、彼を生んですぐに亡くなり、仁宗は第二継妃の文定王后に育てられました。文定王后は、王妃となって17年間男子に恵まれず、34歳でやっと生まれた息子、慶源大君を溺愛していました。そして、慶源大君が王位を継ぐことを強く望んでいました。
仁宗を白眼視した文定王后は、彼を何度も殺そうとしたと言われています。たとえば、仁宗が世子だった時のこと。東宮が火事になり、仁宗は嬪宮とともに危うく火の中から抜け出しました。その原因は、ねずみの尾に火をつけた放火であり、仕掛けたのは文定王后だったとされています。
それにもかかわらず、仁宗は文定王后を恨むことなく、むしろ自らの孝行が足りないと反省していました。そして、慶源大君に王位を譲るべく、自分の子どもをもうけなかったともいわれています。
中宗の死によって王位に就いた仁宗は、文定王后の弟の尹元衡(ユン ウォニョン)を重職に登用するなど、バランスのとれた政治を試みました。趙光祖をはじめ〝己卯士禍(キミョ サファ)〟で被害にあった士林派の名誉を回復し、趙光祖が設けた科挙によらない人材登用制度「賢良科(ヒョリャングァ)」を復活させます。そして、自ら重んじていた道学思想を政治に応用すべく、士林の学者たちを登用しました。
しかし、仁宗はほどなく原因不明の病にかかり、31歳でこの世を去りました。野史は、「仁宗の死は、文定王后が与えた毒入りの餅が原因だった」と伝えています。〝文定王后が仁宗を招き入れ、初めて笑みを見せながら餅を差し出した。仁宗は好意を喜び、疑うことなく餅を口に入れ、急に具合が悪くなり、 亡くなってしまった。〟
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