正祖
★朝鮮22代王
正祖(チョンジョ)/李祘(イ サン)
☆生没年
1752年〜1800年
☆在位期間
1776年〜1800年
☆宗室→家系図
【父】
【母】
【后】
【子】
▽宜嬪成氏
- 文孝世子(ムニョ セジャ)
▽綏嬪朴氏
▽和嬪尹氏
- 翁主
--------------------
★我慢し続けた世孫時代
英祖と並んで朝鮮王朝中興の祖といわれる正祖は、歴代王の中でも人気のある一人です。その正祖は、英祖によって餓死させられた荘献世子(思悼世子)の次男で、1759年、8歳の時に世孫に冊封されました。1767年に荘献世子が死ぬと、荘献世子とは異腹の兄で夭逝した孝章世子の養子になりました。1775年には英祖の代理聴政を行い、翌年の英祖の死去とともに第22代王に即位しました。
荘献世子の死後、政界で権力を握った老論派は僻派と時派に分裂します。正祖も僻派の陰謀によって何度も生命の危機に陥ることにまりましたが、かろうじて難を逃れることができました。そのため、代理聴政の時も、正祖は政治に口を出さずに、学問研究に熱中していたといいます。
英祖の死去により即位したその日、正祖が臣下に最初に口にした言葉は「私は思悼世子の子である」。それまで胸に秘めていた思いを爆発させた瞬間でした。そして自分を窮地から救ってくれた洪国栄(ホン グギョン)を政界に起用し実権を握らせました。洪国栄は正祖の信任のもと、しばらくの間、思うままに政治を行いました。また、正祖は自分の即位を妨害しようとした僻派を抑制しました。
正祖像
★〝奎章閣〟を設置し文化政治へ
正祖は即位すると、文化政治を標梼して王室の図書館である奎章閣(キュジャンガク)をつくり、学間を奨励しました。さらに正祖は、ここでの人材養成を通じて、党派に左右されない政治改革ができる親衛勢力を形成しようとしました。また、実学者を官職に登用するようになりましたが、奎章閣の官職には朴斉家(パク チェガ)などの庶子出身の学者を配置し、実力で朝廷に進出できる道を開きました。そのような体制が整うと、1780年、正祖は、孝懿王后を殺害しようとした洪国栄を追放し、南人の蔡済恭(チェ ジェゴン)らを得て親政を始めます。洪国栄は正祖の即位に貢献しましたが、わずか4年で政治から退きました。
正祖御筆 贈鉄甕府伯赴任之行
1871年以降、奎章閣は本格的に「王が意図する革新政治の中枢」として機能するようになり、「学問中心の政治」と「生産を通じて発展を図る」ことを目標に人材育成を行っていきました。正祖は奎章閣を通じて、英祖以来の蕩平策を発展させた文化政治を実現しようとしたのです。正祖は政局を指導するにあたっても、各学派の長所を受け入れ、それぞれの学風を奨励しました。このような雰囲気は民間にも影響を与え、農工業が発展します。
奎章閣
【 実学の新たな興隆 】
英祖の頃から、朝鮮王朝では実学が盛んになりました。社会が変化して、それまでの政治のあり方や朱子学では対応できなくなったからです。朝鮮の社会は〝倭乱〟や〝胡乱〟で大きく変化して、両班中心の身分秩序が崩壊していきました。その一方で、〝常平通宝〟が普及し貨幣経済が発展しました。つまり、朝鮮王朝が開かれたときとは違う社会になっていたのです。そんな社会の変化に対する答えを出そうとしたのが、実学でした。
当時、清では西欧の学術書が翻訳されるようになり、それが、清に行った使節を通じて朝鮮に持ち帰られました。また同時に、実証的なことを重んじる学問研究の方法も伝わりました。
実学の流れは大きく二つに分かれていました。1つは農業問題から関心を持った〝実学者〟です。農業経済の安定は社会と国家の存亡に関係することから、彼らは土地制度、奴婢制度、軍事制度を深く考察します。ここに柳馨遠(ユ ヒョンウォン)、実学の最高峰とされる丁若鏞(チョン ヤギョン)らがいました。彼らは理論だけでなく、実際に役立つ水利施設の拡充や種子と農機具の改良、耕作方法の改良も提示しているところに特徴があります。
もう1つは、清から伝わった西洋の影響を強く受けた〝北学派〟です。北学とは、北方の清朝に学ぶことで、彼らは農業だけでなく、商工業の振興と技術の革新に関心を示しました。洪大容(ホン デヨン)は清に行って西洋の学問を学び、多くの書を著して社会に広く影響を与えました。この思想は北学の巨匠とされる朴趾源(パク チウォン)、庶子出身の朴斉家に引き継がれていきました。特に、朴斉家は清との通商強化、節約よりは消費をすることによって生産を増やすことなど、 当時の朝鮮としては大胆な社会改革を唱えたことで知られています。
このような実学の流れが、さらに朝鮮独自のものに対する関心を広げていき、中国中心ではない朝鮮独自の歴史や文化を扱う本が多く書かれました。正祖はこれら実学の思想を政治の中で実現しようとしましたが、その死とともに挫折してしまいました。まだ、実現するには機は熟していなかったのです。
朴趾源
また正祖は、王権の確立と政治改革のために、荘献世子の墓を水原華城に移し、そこへの遷都を計画しました。
水原華城
【 正祖の理想が込められた水原華城 】
ソウル近郊の京畿道水原にある華城は、計画から工事まで、当時の総理大臣の蔡済恭ら時派によって行われ、1794年1月に着工。約2年半で完成しました。東洋で初めての近代的城郭としても有名です。
正祖は、非業の死を遂げた父、荘献世子の墓所を1789年に京畿道楊州の拝峰山から、風水で最もよいとされた水原の華山に移し、墓所に通っていました。そして次第に、この地に城郭を造り都を移そうと考えるようになります。その理由は、父の墓の近くで父への〝孝〟を尽くすことの他に、正祖の政治を妨害しようとした老論僻派の強い漢城から逃れて、新たな政治の拠点を作るためでした。さらには、ここを南の軍事的要塞とするとともに、城内の商工業を発展させようと考えていました。
水原華城は、実学者の丁若鏞の意見によって、朝鮮の伝統的な城郭建築の長所を活かしながら、中国や日本の築城の長所も取り入れて設計されました。
まず、軍事面では、歴代の朝鮮の城は生活の場である平城と避難用の山城から成りますが、華城では戦時も平城に閉じこもって防御できるように軍事面を重視して設計しました。数々の軍事施設はそのためのものであり、4つの門には、防御用の甕城が付けられています。
また、期間を短縮して費用を安くするために、工事用の重機を西洋技術を用いて作成しました。つまり東洋と西洋の科学を動員して造られた城なのです。
さらに、城内の住民に配慮した都市計画が作られます。水原の住民は華城から南に5キロほど離れた所に住んでいましたが、そこがあまりにも狭いことを知った正祖が、ここに移住させました。城内の道路は縦横直交するように設計されて、商店を建設しやすいようになっています。
正祖の理想を反映した水原華城は1796年9月に完成しましたが、ついに遷都することはありませんでした。正祖の急死とともに計画も消滅したからです。正祖の墓は父の墓の隣に造られました。正祖は亡くなった後も自身の夢を忘れきれないのか、今も水原華城を見守っています。
丁若鏞
★老論勢力の巻き返し
この中で、政界では時派の勢いが強くなっていった。これに巻き返しを図った僻派は、1791年の朝鮮史最初のカトリック教徒迫害、1795年の中国人神父密入国事件を利用しました。時派が力トリックに対して比較的寛大だ
ったからで、これにより時派の勢いが弱まりました。さらに1799年には蔡済恭が死亡し、これにより時派の南人勢力は衰退することとなりました。
このように王権確立と改革政治を目指した正祖でしたが、その活動は突如終わりを告げました。1800年、正祖が突然病に倒れ崩御したからです。その死は、老論派による毒殺とも敗血症とも脳卒中ともいわれています。
0コメント