顕徳王后 権氏

★王后(文宗夫人)

    顕徳王后権氏(ヒョンドク ワンフ クォン氏)
    本貫:安東権氏
☆生没年
    1418年〜1441年
☆在位期間
    ※文宗即位前に死去したため追尊
☆宗室
【父】
権専(クォン チョン)
【母】
海寧府夫人海州崔氏(ヘヨンブ プイン へジュ チェ氏)
【夫】
【王子】
【王女】
敬恵公主(キョンへ コンジュ)
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    顕徳王后権氏は1418年、権専と海州崔氏の間に生まれました。13歳のとき、王世子である珦(ヒャン)=文宗の後宮として世子宮に入ると、19歳で世子嬪に冊封されました。
    1441年、弘暐(後の端宗)を生みましたが、3日後に権氏は産褥死しました。諡号を顕徳嬪とされ、1450年に文宗が王位に即位した後に追尊されました。
    その後、世宗の次男、首陽大君(スヤン テグン)=世祖が端宗から王位を奪うと、顕徳王后の母と王后の弟、権自慎(クォン ジャシン)は成三問(ソン サンムン)らとともに〝端宗復位運動〟をして1456年に処刑され、端宗は1457年に魯山君(ノサングン)に降格されました。
    一方、既に死去していた顕徳王后とその父権専には連座刑が下され、権専は1456年に、顕徳王后は1457年にそれぞれ廃庶人となりました。
    後に成宗が顕徳王后を顕徳嬪に復位しましたが、王妃としての復位は、顕徳王后の連座制適用が適当ではないという意見が上って来た以後合意を経て、1513年に中宗が顕徳王后を、1699年に粛宗が権専の名誉回復によって実現しました。

顕陵

たいしょーの朝鮮王朝史

朝鮮王朝518年の歴史をここに。

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