宜安大君/李芳碩(イ バンソク)

★王族(太祖治世)

    宜安大君(ウィアン テグン)/李芳碩
☆概要
    太祖の八男、世子
☆生没年
    1382年〜1398年
☆親族
【父】
  • 太祖/李成桂(イ ソンゲ)
【母】
【妻】
  • 廃世子嬪柳氏(ペセジャビン リュ氏) ※世子嬪
  • 賢嬪沈氏(ヒョンビン シム氏) ※廃位
【子】
▽賢嬪沈氏
  • 嫡男
▽養子
  • 錦城大君(クムソン テグン)/李瑜(イ ユ)
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    芳碩は太祖の八男で神徳王后康氏の第2王子として生まれました。正室であった柳氏が内侍の李萬(イ マン)と内通したことが発覚すると、李萬は処刑。柳氏も廃位されました。継室として春秋館大提学、沈孝生(シム ヒョセン)の娘を迎え再婚しました。
    朝鮮が開国し、世子冊封問題が生じると、裴克廉(ペ グギョム)などが靖安君(チョンアングン)の世子冊封を主張しましたが、靖安君の生母である神懿王后韓氏はすでに死去していたため、芳蕃(バンボン)と芳碩の生母である神徳王后康氏の意向に沿い、太祖は芳蕃を世子に立てようとしました。しかし、鄭道伝らの反対で世子の座には芳碩が就くことになりました。
    わずが10歳で朝鮮の王世子に冊封された芳碩は、康氏の保護と鄭道伝、南誾(ナム ウン)ら開国功臣の力添えで世子としての資質を備えていきました。しかし、康氏が死去し、太祖も病床に臥すようになると支援勢力は急激に弱まりました。この隙に韓氏の王子たちが反乱を起こし、この“第1次王子の乱”の成功で勢力を握った芳遠は、芳碩を配流とし、芳蕃とともに殺害しました。
    後に世宗の六男、錦城大君が芳碩の後継となりましたが、世祖に反旗をあげて失敗し、31歳で処刑されてしまいました。

たいしょーの朝鮮王朝史

朝鮮王朝518年の歴史をここに。

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