文宗

★朝鮮5代王

    文宗(ムンジョン)/李珦(イ ヒョン)
【←世宗/端宗→】
☆生没年
    1414年〜1452年
☆在位期間
    1450年〜1452年
☆宗室→家系図
【父】
  • 世宗/忠寧大君(チュンニョン テグン)
【母】
【后】
【子】
▽顕徳王后権氏(1男1女)
▽司則楊氏(1女)
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★7歳で世子の座に

    朝鮮王朝一の名君と謳われた世宗の死後、文宗は36歳(1450年)で即位しました。温和な性質だった文宗は強い王権を目指した太宗などとは異なり、大臣や身分の低い臣下の話もよく聞き入れていたといいます。
    文宗は1414年に世宗の長男として生まれ、1421年、7歳で世子の座に就きました。王位に就くまで実に30年もの間、世宗のそばで名君の王政とは何かを学びます。さらに、1442年から世宗がこの世を去るまでの8年間は、病気がちの世宗に代わって摂政を務めました。文宗の在位期間は2年と短いものの、朝鮮王朝の政治に関わった期間としてはほぼ10年ということになります。

★聖君、世宗大王の後を継ぐ

    世宗の在位期間は31年でした。その間、精力的に改革や発明に邁進し、さまざまな業績を挙げます。しかし、業績を上げた分、激務をこなす世宗の体は病にむしばまれていきました。1436年、世宗は体調不良を理由に世子を摂政にすると言い出します。しかし、周囲からの激しい反対に遭い、この時の世子による摂政は実現しませんでした。
    そこで世宗は父、太宗が導入した六曹直啓制から議政府署事制への移行を実施します。鄭道伝(チョン ドジョン)が推奨した宰相政治の復活でした。これにより、六曹の長官から直接報告を受けるこれまでのやり方から、議政府がまず審議して王が決裁する仕組みへと変わっていきました。それでも、すでに寝たり起きたりの状態だった世宗は6年後、再び世子を摂政に任命すると宣言します。今度も強い反発がありましたが、世宗はこれを押し切り、ついに1442年、世子による摂政が始まりました。
    父、世宗によく似て学間を好み、幼い頃からさまざまな書を読んでは自ら研究、発明に励んだ文宗は、周囲の話にもよく耳を傾けました。このように人となりについては非の打ちどころのない文宗でしたが、ただ一点、病弱だったことが彼と王室に暗い影を落とすことになります。

★書物の編纂など軍制の整理に傾倒

    8年間の摂政と在位2年間で文宗は世宗の政策を継承しながら、『東国兵鑑(トングクピョンガム)』『高麗史(コリョサ)』『高麗史節要(コリョサチョリョ)』などの書物の編纂、刊行に力を注ぎました。
    特に文宗は軍事への関心が高かったため、『東国兵鑑』の編纂に熱意を傾けます。古代朝鮮から高麗末期までの戦争の歴史を記した『東国兵鑑』は文宗の名で編纂されたものです。
    軍事に関しては書物の編纂のほか、陣法づくりにも尽力します。軍事を中央に集中させたからには、朝鮮の地形に合った陣法を整備、拡充していくことが軍事力の安定につながるとの考えからです。
    朝鮮王朝の建国当初、軍事を掌握していた鄭道伝は王族らが保有する私兵を牽制するため、陣法をはじめとする兵書を編纂しています。あれほど鄭道伝を嫌っていた太宗ですら、彼の陣法には一目を置いていました。文宗は世子の頃から陣法の研究を進めていましたが、即位後はその成果を『五衛陣法(オウィジンポプ)』として著します。軍の組織や戦闘態勢、軍法、訓練から兵力の編成、人員に至るまで、軍事に関するあらゆる側面を網羅した陣法書を王自らまとめ上げたという点で、『五衛陣法』編纂の功績は大きいと言えます。また、この書物の序文は世祖が書いています。
  • 高麗史節要

★病弱な王子への憂慮

    世宗の遺志を継いで立派に業績を積んでいった文宗ですが、生来病弱だったことが父にとっても心配の種でした。世宗は死の直前まで王位を文宗の弟、首陽大君に譲るべきか悩んでいました。しかし、朝鮮王朝が建国されてわずか60年ほどの間に繰り返された王位継承をめぐる血なまぐさい争いを思うと、やはり王室の安定には長男継承の原則が必須であると考えました。世宗自身が三男であったという事実もこれに拍車をかけました。
    一方、即位わずか2年で病床に就いた文宗には王子が弘暐(ホンウィ)ただ一人しかいませんでした。幼い時分に世子になったため結婚も早かった文宗ですが、最初の妻、金氏とは彼女が年上だったせいかどうにもなじめず、二人目の妻、奉氏ともうまくいきませんでした。この二人は文宗の寵愛を得ようと奮闘しましたが、それがあだになって結局廃されてしまいます。この後、文宗は側室の一人、権氏を気に入って寵愛するようになります。それが弘暐の母親です。しかし、権氏は弘暐を産んですぐに息を引き取ってしまいます。権氏が亡くなってから、文宗は正室を置きませんでした。
    文宗が病の床に就くと、弟の首陽大君、安平大君などの勢力が拡大します。ただ一人の王子、弘暐はこの時11歳でした。まだ幼く、母もいない我が子を残して、文宗は38歳の若さでこの世を去りました。

たいしょーの朝鮮王朝史

朝鮮王朝518年の歴史をここに。

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