世宗

★朝鮮4代王

    世宗(セジョン)/李祹(イ ド)
【←太宗/文宗→】
☆生没年
    1397年〜1450年
☆在位期間
    1418年〜1450年
☆宗室→家系図
【父】
  • 太宗/靖安君(チョンアン グン)/李芳遠(イ バンウォン)
【母】
【后】
【子】
▽昭憲王后沈氏(8男2女)
▽令嬪姜氏(1男)
▽慎嬪金氏(6男)
▽恵嬪楊氏(3男)
▽淑媛李氏(1女)
▽尚寝宋氏(1女)
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★異例の王位継承

    太宗と元敬王后の三男として生まれた世宗は、長子相続の原則を掲げる朝鮮王朝で、数いる王子の一人として一生を終えるはずでした。 
    ところが、太宗の長男として世子に冊立された譲寧大君は、長じるにつれて奇行が目立つようになり、王位継承者にふさわしくないと判断した太宗はこれを廃位し、三男の忠寧大君を己の後継者に指名します。
    忠寧大君は幼い頃から学間を好み、書物に親しみました。同じ本を百回も千回も熟読し、一度読んだ本は文章まで丸ごと暗記してしまう特別な能力を持っていたそうです。性格は温和で学問的探求心が強く、見識ある重臣たちは忠寧大君への王位継承を訴えました。こうして1418年6月、忠寧大君が世子に冊立され、そのわずか2カ月後、太宗は譲位を発表し、忠寧大君が22歳で即位します。朝鮮一の聖君と名高い第4代王・世宗が誕生しました。
    太宗が譲位を急いだ理由は、王世子教育を受けることなく王位に就いた世宗が安定して政治を行えるよう、体制を整えるためでした。

    譲寧大君は、資質不足として廃位されたとはいえ14年間も世子の座にあったため、彼を支える勢力は強大でした。中でも太宗が最も警戒していたのが太宗の妻である閔氏一族です。譲寧大君は幼い頃を母方の実家で過ごしたため、閔氏一族と深い関係でした。彼らに対する不信感が譲寧大君への不信感につながった面もあるといわれています。太宗は世宗即位後も政治の実権を握り、外戚らが権力をふるって政事に悪影響を及ぼすことがないよう、牽制しながら後継体制の安定化に尽力しました。

    世宗即位から4年後の1422年、太宗が死去し、世宗が名実ともに朝鮮の王となりました。以後、世宗は太宗が築き上げた強力な王権をもとに驚くべき政治力を発揮して朝鮮を導いていきます。 

★朝鮮の黄金期 

   即位後の世宗が真っ先に手をつけたのは、集賢殿(チッピョンジョン)の拡大拡張でした。自らの政策を実現させるには、自分だけの臣下を育てなければならないと考えた世宗は、学問研究機関として設置されたものの、有名無実化していた集賢殿に新進の英才たちを集め、彼らを学間に専念させて自らのブレーンとして養成しました。彼らの学間は朝鮮の儒教政治の基盤を整えただけでなく、朝鮮固有の文化を生み出し、科学技術の発展にもつながりました。
    世宗時代に編纂された書物を見ると、その数はもちろん、幅広い分野にわたっていることに驚かされます。それは、世宗が各分野における優秀な人材を見いだし、彼らが能力を十分に発揮できるよう導いた証拠でしょう。
【学問と政治の中心機関“集賢殿”】
    世宗が集賢殿を設置したのは1420年、即位から2年後のことです。当時はまだ太宗が政治の実権を握っており、朝廷では建国期から国を支えてきた元老たちが幅を利かせていました。
    若い王が彼らを率いていくのは並大抵のことではなく、世宗は自らの手足となって動く新しい臣下の必要性を痛切に感じ、その育成機関として集賢殿を活用することにしたのです。 

    集賢殿は中国の制度にならったもので、朝鮮では遠く三国時代に似たような機関が設置されたことがありました。朝鮮時代で定宗が設置しましたが活用されず、世宗はこれを復活させて新進の英才たちを集めて学間に専念させました。

    集賢殿は出世が約束されたエリートコースで、一度入ったら自分が望まない限り別の部署に移動させられることがなく、自動的に副提学まで出世できました。静かな寺院などにこもって研究に没頭できるよう、賜暇読書(サガドクソ)という長期休暇まで用意されていました。その一方で、王や王世子に儒教の経典や歴史書などを講義する経筵官(キョンヨングァン)や成均館(ソンギュングァン)の教官を担当し、後進の教育にもあたりました。 

    彼らが行った研究は、統治哲学の基本となる経典の研究はもちろん、法律、文化、歴史、地理、語学、天文・ 暦学など多様な分野にわたります。その研究成果がやがてさまざまな形で実を結んで朝鮮の黄金時代を形づくりました。世宗代に迎えた朝鮮の全盛期は、まさに集賢殿から生み出されていたのです。 

    このように朝鮮王朝前期において重要な役割を果たした集賢殿ですが、世宗の死後わずか6年で世祖によって廃止されてしまいます。クーデターで王位に就いた世祖に集賢殿の学者たちの多くが反対したためです。

    しかし、集賢殿の廃止後も集賢殿出身の学者たちは朝廷の要職を担い、『経国大典』の編纂などに活躍します。集賢殿が存在したのはわずか36年ですが、その恩恵は後々までこの国に豊かな実りを与え続けました。

  • 集賢殿
   朝鮮史上きっての科学者といわれている蒋英実(チャン ヨンシル)は、もとは奴婢でしたが優れた技術力を認められて宮中技術者となり、仰釜日晷(イルブイルグ)[日時計]や自撃漏(チャギョンヌ)[水時計]など、後世に残る発明品を生み出しました。 
【文化発展の立役者、蒋英実と朴壊】
    世宗時代の輝かしい業績の中でも筆頭に挙げられるのが科学技術の発展ですが、それに大きく貢献したのが、朝鮮最高の科学者といわれる蒋英実(チャン ヨンシル)です。
    もとは釜山の奴婢という低い身分出身で、築城や農機具・武器の修理が巧みなことから太宗代に宮中に取り立てられましたが、彼がその真価を発揮するのは世宗の時代になってからでした。
    正確な時刻を測定する仰釜日晷(アンブイルグ)や自撃漏(チャギョンヌ)の発明や、天体の動きを観察する渾天儀(ホンチョニ)の改良に成功し、世宗はその功績を称え、蒋英実を尚衣院(サンウィウォン)の別坐(ピョルチャ)に任命します。重臣たちの中には彼の身分が低いという理由で反対する者もいましたが、世宗は耳を貸しませんでした。
    もうーつ、世宗時代の成果として重要なのが音楽の発展です。これを担ったのが、天才音楽家といわれる朴堧(パク ヨン)でした。彼はすべての音程を正確に聞き分けられる才能を持ち、律管(ユルグァン)という音階の基準となる音を定める器具や楽器を作りました。また、宮中儀礼で重要な役割を果たす雅楽の整備にも取り組みました。
  • 仰釜日晷
    一方、内面の充実のみならず国力の伸張にも力を注いだ世宗は、北方を脅かす女真族の討伐にも着手します。重臣たちが反対する中、金宗瑞(キム ジョンソ)を北方に派遣して六鎮(ユクチン)を開拓させ、女真族を追いやって領土確保に成功しました。 
【六鎮四郡設置による国土の開拓】
    朝鮮半島のつけ根にあたる明との国境地帯、この地に住む女真族の侵入を防ぐために、世宗は六鎮四郡という国防上の要塞を設置しました。
    女真族の侵入は高麗時代から相次いでおり、朝鮮においても建国当初からその解決に頭を悩ませてきました。太祖は自らが北方出身であり、女真族との親交も深かったため、懐柔策で彼らを朝鮮に取り込もうとしました。
    しかし、世宗時代になると女真族の侵入が頻発し、懐柔策ではとても手に負えなくなります。国土の拡大拡張を目指す世宗は決してひるむことなく大規模な討伐隊を派遣し、鴨緑江(アムノッカン)流域に四郡、豆満江(トゥマンガン)流域に六鎮を設置して女真族を中国内陸部へと追いやることに成功しました。中でも金宗瑞が遂行した六鎮開拓は、彼が中央政界へと進出し政界の実力者となるきっかけとなります。

★ハングル(訓民正音)の創製

    世宗の一番の功績はなんといってもハングル(訓民正音)の創製でしょう。世界で最も合理的な文字といわれるハングルは、音韻学に基づいて子音と母音を抽出し、その組み合わせによって一つの文字を形づくります。もしハングルがつくり出されていなかったら、漢字という異国の文字で自分たちの言語を表すという不便な作業を続けねばならず、朝鮮社会の発展は大きく阻害されていたかもしれません。
    このような輝かしい業績を成し遂げた世宗ですが、その業績の根底にあるのは、民に対する熱い思いでした。学問を生活に生かして暮らしを楽にする方法を追求した結果、科学技術が発展しました。そして、手軽に学べる簡単な文字をつくって民の思いを聞き届けたいという願いがハングルの創製につながったのです。 
  • 訓民正音

たいしょーの朝鮮王朝史

朝鮮王朝518年の歴史をここに。

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