孝宗

★朝鮮17代王

    孝宗(ヒョジョン)/李淏(イ ホ)
      ↑
    鳳林大君(ポンリム テグン)
【←仁祖/顕宗→】
☆生没年
    1619年〜1659年
☆在位期間
    1649年〜1659年
☆宗室→家系図
【父】
  • 仁祖/綾陽君(ヌンヤン グン)
【母】
【后】
【子】
▽仁宣王后張氏
▽安嬪李氏
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★運命を変えた清での人質生活

    孝宗は1619年に仁祖を父、仁烈王后を母として生まれました。名前は淏(ホ)、字は静淵(チョンヨン)で、鳳林大君に奉じられます。1631年に右議政の張維(チャン ユ)の娘と結婚し、1636年の〝丙子胡乱〟によって後金(後の清)に攻められると、仁祖の命令で弟の麟坪大君(インピョン テグン)とともに妃、宗室、両班たちを率いて江華島に避難しました。しかし翌年に仁祖が降伏、清の撤退条件は昭顕世子(ソヒョン セジャ)、鳳林大君、麟坪大君の仁祖の三人の王子らを人質として清に連行するというものでした。
    清での人質生活は、長男の昭顕世子と次男の鳳林大君の運命を分けることになります。兄の昭顕世子は清に輸入されている西洋の文化や歴史に接し、西洋人たちとの交際を通じて新しい思想を学びました。さらに西洋人神父アダム・シャールとの出会いでカトリック教を知り、そして西洋の科学文明にも惹かれていきました。
    一方で鳳林大君は清で兄の昭顕世子同様、多くの西洋文化に触れたものの、心酔することはありませんでした。また、世子である兄の身を守り、清の内情を探って、本国に報告したのです。彼は兄の代わりに戦闘に参加させられ、明の滅亡を直接体験しました。人質生活で苦労し、清を恨んでいたのです。
    1645年、清が明を滅ぼしたため、人質となっていた昭顕世子と鳳林大君は8年ぶりに朝鮮に帰国することができました。しかし、清でまったく違った方向に歩んだ二人は帰国後に運命が変わります。父である仁祖は、徹底した反清主義の人間で、清との円満な関係を維持する昭顕世子が許せませんでした。帰国後、それを知らない昭顕世子は仁祖に清の内部事情や西洋の文物に対する報告をします。すると仁祖は激しく怒り、昭顕世子を追い出してしまいました。その後、昭顕世子は急な病にかかり数日後に亡くなりました。遺骸は全身が真っ黒で、毒殺の可能姓が強いといわれています。さらに、仁祖はさまざまな理由をつけて昭顕世子の家族や妻までも殺してしまいました。反清感情の強い仁祖は、王室の慣例を破り次男の鳳林大君に王位を譲ります。後の朝鮮第17代王、孝宗です。
孝宗御筆

★軍備拡張を図るも北伐は成し得ず

    反清感情を持つ孝宗は、王位に就くとすぐに親清勢力を追放し、北伐計画を実行していくことになります。
    孝宗の最初の粛清のターゲットは親清派の金自点(キム ジャジョム)でした。彼は〝仁祖反正〟の功臣の立場を利用して、一時政権を掌握し権勢をふるっていた人物です。しかし仁祖が死去すると、金自点は配流させられ、その配流先で謀反計画を画策しますが事前に暴露されて処刑されました。
    親清勢力を排除した孝宗は、本格的な軍備拡充に乗り出します。北伐の先鋒部隊である御営庁を強化し、王を護衛する禁軍を騎兵化しました。さらに、1655年にはすべての禁軍を内三庁に統合し、兵士も600余人から千余人まで増員して王権を強化しました。
    一方で、地方軍の訓練を強化し、漢城の外郭と江華島の兵力を増強して首都の安全を図っていきました。その頃、ロシアが清の国境に侵入してきたため、清政府は朝鮮の鳥銃(火縄銃)部隊の派遣を要請します。これが1654年の第一次ロシア征伐です。清軍と朝鮮の鳥銃部隊は松花江と黒龍江が合流する地地点でロシア軍と遭遇。ロシア軍は船団で近づいてきましたが、朝鮮の鳥銃部隊は火力で敵船を焼き払い壊滅させました。以後も黒龍江付近で活動するロシア軍を繊滅し、2度のロシア征伐は朝鮮軍の士気を上げました。
    しかし、国防強化政策にもかかわらず、肝心の北伐の機会はやってこず、 清の力も強まる一方でした。結局、孝宗は北伐を成し遂げることなく41歳でこの世を去りました。

【 嵐で漂着したオランダ人たち 】
    朝鮮王朝時代、朝鮮にもオランダ人がいました。日本に行く途中に漂着した人々で、その最初の人物がヤン・ヤンセ ウェルテフレーです。1627年、長崎に向かっていたオランダ人ヤンの乗った船は、嵐に遭い朝鮮半島の東海岸に流されてしまいます。飲み水を求めて上陸したヤンは、仲間二人とともに逮捕されました。朝鮮は日本に引き取るよう求めましたが、拒否されてしまったため、3 人を兵士として滞在させることにしました。ヤン以外の二人は丙子胡乱で死亡してしまいましたが、ヤンは朴淵(パク ヨン)と名乗り、朝鮮人女性と結婚しました。
    次いで、1653年、今度はヘンドリック・ハメルほか35名が乗った船が、日本に向かう途中、嵐で済州島に漂着しました。彼は済州島に派遣されたヤンに帰国したいと訴えます。しかし結局、彼らは漢城で軟禁生活を送ったのち、全羅道に送られました。次第に生存者は減っていきましたが、1666年、8名が日本への脱出を図り成功しました。

たいしょーの朝鮮王朝史

朝鮮王朝518年の歴史をここに。

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