定宗

★朝鮮2代王

    定宗(チョンジョン)/李芳果(イ バングァ)
【←太祖/太宗→】
☆生没年
    1357年〜1419年
☆在位期間
    1398年〜1400年 ※生前譲位

宗室→家系図

【父】
  • 太祖(テジョ)/李成桂(イ ソンゲ)
【母】
【后】
【子】
▽誠嬪池氏(2男)
▽淑儀池氏(3男1女)
▽淑儀奇氏(4男2女)
▽淑儀文氏(1男)
▽淑儀尹氏(4男1女)
▽淑儀李氏(1男)
▽嘉懿宮主柳氏(1男)
▽侍女
▽後宮
  • 徳川翁主(トクチョン オンジュ)
  • 高城翁主(ゴソン オンジュ)
  • 全山翁主(チョンサン オンジュ)
  • 咸安翁主(ハマン オンジュ)
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★意図せぬ即位

    李成桂の次男として1357年に生まれた芳果は穏やかで真面目な性格でしたが、決して弱々しい人物ではありませんでした。知略に長け、気骨もあり、しばしば父を助けました。朝鮮建国のクーデター、威化島回軍でも大きな功績を残します。
    にもかかわらず、弟の芳遠ともども開国功臣からはずされ、鄭道伝(チョン ドジョン)によって軍の指揮権まで奪われてしまいます。こうした状況の中、異母弟の芳碩が世子に決まると反発はついに反乱になって現れます。
    「第一次王子の乱」で鄭道伝、芳碩、そして芳蕃が相次いで殺害されてしまいました。建国わずか7年で勃発したこのクーデターに大きな衝撃を受けた太祖・李成桂は、ついに芳果に譲位して自分は上王になる決心をします。芳遠の強い勧めもあり、こうして芳果は意図せぬ即位をすることになりました。
    【都を再び開京へ】
    王位についた定宗がまず取り組んだのが漢城からの遷都でした。鄭道伝の主張を取り入れる形で決まった首都・漢城で王権争いが起こったことから、地相が悪いと判断した定宗は、高麗の首都・開京へ再び都を戻します。このとき実権を握っていたのが芳遠でした。

★実権を握る芳遠への譲位

    ところが、このような芳遠が実権を握った王朝の在り方に反感を抱いた芳幹が反乱を起こします。これが「第二次王子の乱」です。
    結局、芳遠が芳幹を退け、王位継承を決定的なものにします。芳遠を世弟(セジェ)[後継者が弟である場合の呼び方]にした定宗は、芳遠の推し進める王族や官僚らの私兵解体を始めます。
    兵権を三軍府(サムグンブ)に集中させ、業務期間である議政府(ウィジョンブ)と兼任できないようにすることで、軍部と政務を完全に分離しました。こうして実権を確固たるものにした芳遠に、定宗は在位わずか2年で譲位しました。
    上王となった定宗は趣味と娯楽に残りの半生を費やし、政治の表舞台に介入することはありませんでした。

たいしょーの朝鮮王朝史

朝鮮王朝518年の歴史をここに。

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